クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

息子と一緒にご飯を作ろう!母の日

母の日、妻への感謝の気持ちを込めて、息子と一緒に朝食を用意しました。

 

息子とのご飯作りは、私が最も苦手とすることの一つです。3歳の息子と一緒にご飯を用意するのは、正直とても面倒です...。息子はあんまり分かってないし、怪我をする可能性があるし、失敗して余計な手間と時間がかかっちゃうかもしれないし、そもそもご飯ができないかもしれないし...。

 

「自分の思い通りに事を運びたい」「失敗したくない」「パパッと早く済ませたい」私には、息子に付き合うのが簡単ではありません。イライラするし、とても疲れます。

 

でも、彼はよく、色々お手伝いしたがります。ご飯を作るのも、お茶やコーヒーを淹れるのも(そんなの今のうちだけでしょうね!)。

 

そんな彼の思いを無視したくはないので、また、自分の未熟さを克服したいので、最近「息子と一緒のご飯作りに慣れる!」という目標を立てていました。

 

そんな背景があり、母の日はとても良い機会だったので、息子と一緒に朝食作りに取り組んでみました。

 

息子に付き合いながら、また、息子に付き合ってもらいながら、二人で楽しくご飯を食卓に並べることができました。そのことが嬉しくて、また、妻にも喜んでもらえてさらに嬉しかったです。

 

父としての未熟さ、また、その未熟さに忍耐し、付き合い、私を聖め続けてくださる天の父を思う時に、心に感動と希望が満ちます。

 

この天の父の忍耐深さ、憐み深さ、恵み深さを、日々の生活の中の小さな事を通して、息子に示すことができますように。

 

自分のために楽したがる者が、相手のために苦労する者に、

 

イライラしやすい者が、忍耐深い者に、

 

自分勝手な者が、相手の最善を求める者に、

 

失敗したくない者が、失敗を受け入れる者に、

 

掃除するのが面倒な者が、相手のためなら喜んで掃除する者に、

 

自分のペースで事を進めようとする者が、相手のペースに合わせる者に、

 

変えられていきますように。

愛してる"つもり"

結婚してからの数年(厳密には交際していた時から)、「自分は妻を(頑張って)愛してる」と自負していた。

 

それは、相手を愛する”行い”をたくさんしていると思っていたから。

 

でも、実際は愛してる”つもり”にすぎなかった。

 

もちろん、それは愛が全くなかったというわけではない。白か黒かではない。でも、自分が思ってるほど、彼女を真実に愛せては全くなかったと思う。

 

心から湧き上がる愛によって動かされるのではなく、自己中心的な動機から生まれる表面的な愛に生きていた。

 

相手に”自分が愛してる”ことを認めてもらうために、あれこれやって、愛を伝えようとしていた。そして、「俺は彼女を愛してるんだ」と思い込んでいた。結婚式において愛を誓い、結婚生活において自己愛に生きていた。妻ではなく、自分を求めていた。

 

 

そして、目に見える一番身近な妻を真実に愛していなかった私は、目に見えない最も愛すべき神を真実に愛していなかった。神ではなく、自分を求めていた。

 

「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」1ヨハネ4:20

 

愛の行いは、愛の人となることから、その心が愛の泉となることから、本当の愛が生まれてくる。真実な愛は、人格から心に湧き上がるものであり、表面的ではなく根本的な変革が起こらないかぎり、生まれてこない。

 

愛の神が、私を愛の人へと変えてくださいますように。

ネガティブな思いを捨て去る

なぜ、身近な人に厳しくなってしまうのだろう。

 

子どもに対して。

 

妻に対して。

 

小さなことで不満がつのり、不機嫌になる。

 

その不満、イライラは自分の心の毒となり、また、人間関係を破壊する。

 

そのような思いを、聖書は捨て去りなさいと命じている。

 

聖書が命じており、それが神の御心なのであるから、私はそのような思いを捨て去ることができる。神の力によって。

 

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。エペソ人への手紙4章30節

 

どうか、神の聖霊を悲しませずに、聖い思い、愛の思い、優しさを持ち続けて過ごすことができますように、神様、私を憐んでください。

プログラムに頼らない信仰継承

コロナウイルスのことがあり、教会に家族で集えなくなりましたが、以前よりも今の方が子供に対する信仰継承が前進していると思います。

 

聖書から弟子訓練を考える時に、弟子訓練は大きく分けてインストラクション(指導)とモデリング(模範)によって行われることが分かります。

 

そのことを考える時、考える力に乏しい子どもに対する弟子訓練(または信仰継承)はモデリングによりウェイトが置かれるべきだと思います。年齢が幼ければ幼いほど、そうなるでしょう。

 

幼い子どもに対する弟子訓練、信仰継承が、言葉で教えることを中心にするならば、おそらくそれは行き詰まるでしょう。上手く行かないからです。私自身がそれを体験しました。話してることをほとんど理解できない、または、概念的なことをまだ理解するのが難しい子どもに、淡々と福音を語ったとしても、子どもはそれを受け取ることができないからです。

 

"プログラム中心"の考えを持っていると、信仰継承もプログラムによって前進させると考えてしまいますが、必ずしもプログラムに頼らなくても信仰継承は前進させることができます。

 

神はイスラエルの民に、日常生活を通して子どもに信仰を継承しなさいと命じられました(申命記6:4-9)。

 

エスさまやパウロは、弟子たちと共に旅をし、生活を共有する中で弟子訓練を行われました。

 

プログラム中心の弟子訓練、信仰継承は本当に聖書的であると言えるか考える必要があると思います。もしプログラムだけだけに頼るのであれば、それは明らかに不十分ですし、神の御心に反しています。

 

神は日常生活の関わりの中で、子どもに対する信仰が継承されること、弟子訓練が行われることを望んでおられます。

 

そのことを考えた時に、特に考える力に乏しい未就学児や小学校低学年の子どもたちに対する信仰継承は1週間のうちの日曜日の教会学校の1時間でこそ前進するのではなく、それ以外の6日間23時間の中でこそ前進すると言えます。教会学校が決して悪いのではありません。ただ教会学校にお任せする信仰継承は明らかに問題があります。聖書のどこにも信仰継承の責任が教会学校の先生たちにあるとは書かれていません。むしろ聖書から考えるならば、子どもに対する信仰継承は親に委ねられているものだと言えます。子どもを持つクリスチャンはみな、(その子どものための)宣教師、伝道師です。

 

私たちの言葉、話し方、行動、態度、生き方を通して、神が与える栄光を、愛を、喜びを、福音を見せることができます。夫婦の関係からも三位一体の神様の交わり、愛、喜びを示すことができます。

 

私たち親が、神様のような親となる必要があるということです。

 

生活の色々な場面で、神を証しすることができます。

 

子どもに朝一番に笑顔で「おはよう」と伝えるときに、その子どもを心から愛し、喜ぶ父なる神様を表すことができます。

 

子どものために喜んで料理を作ることを通して、恵み深い創造主なる神様を示すことができます。

 

被造物の素晴らしさに感動する姿を表すことを通して、偉大な創造主を証しすることができます。

 

夫婦で愛し合うことを通して、完全な愛し合う交わりを持った三位一体の神を表すことができます。

 

すぐに不機嫌になったり、怒らないことを通して、怒るのに遅い神を示すことができます。

 

子どもが家に帰って来た時に温かく迎えることを通して、子どもを温かく迎えられるイエスさまを証しすることができます。

 

子どもと一緒に過ごすすべての時間、場面が、信仰継承の機会となります。そして、幼い子どもが、その模範を見続けて大きくなり、やがて聖書のみことばを深く学んでいくときに、体験的に理解することができるようになるのです。

 

私たちの信仰継承は、子どもが大きくなってから始まるのではなく、子どもが生まれた瞬間から始まっています。私たちの子どもに対する一つ一つの言葉、行い、態度がすべて、子どもたちに神を証しするものとなりますように。

 

 

 

人格: 信仰継承において鍵となるもの

先日、妻のお母さんの命日を迎えました。ちょうど20年目でした。

 

彼女は天国にいますが、今も妻の心の中で生きています。彼女の信仰が、その言葉や愛の行いが、妻の心にしっかりと残っています。

 

妻が16歳の時に彼女は召されました。

 

妻にとって、母が亡くなることは何よりも辛いことでした。普通ならば、この先、どのように生きていけばいいか分からなくなり、絶望し、自暴自棄になってもおかしくなかったと思います。

 

しかし、妻は、悲しみの淵に立った時に一つのことを確信しました。

 

「(お母さんが信じた、そしてその生き方を通して伝えてくれた)神様がいるから、この先も大丈夫」と。

 

信頼するお母さんが信じた(信頼した)神様。

 

その信頼できる神様がいるから、お母さんがいなくても大丈夫。

 

そのように妻が絶望の最中で堅く信仰に立つことができたのは、お母さんが残してくれたものがあったからです。

 

母が言葉や行い、生き方を通して伝えてくれたものが、妻にとって悲しみの中での光、希望となり、神に対する揺るぎない信仰へと至らせてくれたのです。

 

パウロは、その当時、牧会に行き詰まり、意気消沈してたであろう愛弟子テモテにこう語ります。

 

「…あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が"だれ"から学んだかを知って…いるからです」(新約聖書・テモテへの手紙第二 3章14節)

 

テモテは、福音を祖母ロイス、母ユニケ、また、パウロから学びました。パウロだれから学んだか”を思い出させることで、テモテの信仰を支え、強めようとしています。

 

何を学ぶのか、どのように学ぶのかも大事ですが、だれから学ぶのかも大事です。

 

福音を教える者が、実際にその教えてる福音に生き、神様に対する揺るぎない信頼をもって生きる者であるか...。御霊の実を実らせた愛の人、人格者であかどうか...。そういったことが、福音を受け取る者の心、信仰に働きかけるものがあるのです。

 

信頼できる真理は、信頼できる人格を通して、受け継がれていくことが神様の御心です。そして、その受け継がれたことは、その人の信仰を生涯支えるものになります。妻の信仰を見て、そのことを思わされます。

 

おそらく、そのような深い信頼関係を築けるのは、子どもと一緒に住んでいる家族でしょう。身近な人でないと、子どもは心から信頼できる要因を見出すことができないからです。たまに聖書勉強で1時間だけ会う人を心から信頼することは簡単なことではないと思います。人の言葉が本当の意味で説得力を持つのは、その人の生き方、人格がその言葉と一致していることを見るときです。

 

だから、イエスさまもパウロも、弟子たちと共に旅をし、本当に自分がどんな存在なのかを、うわべではない自分の実質を弟子たちに示したのでしょう。

 

そして、イエスさまやパウロが弟子たちに伝えたことは、イエスさまとパウロが弟子たちの側からいなくなった後も、その信仰を支えるものになったのです。テモテにとっては、祖母と母の言葉と人格が彼の信仰を生涯支えました。

 

私は妻の母に会ったことはありませんが、妻の信仰を今もこれからも助けてくれる彼女に本当に感謝しています。天国に行ったら、たくさんお礼を言わなきゃいけません!

 

妻が体験したことを、私たちの息子も同じことを体験して欲しいと願っています。彼が大きくなった時、たとえ私たちがいなくなったとしても、私たちの生き方や人格を通して表された真理に、彼が確信をもって堅く立つことができますように。

 

毎日の彼に対する態度や言葉、行いが、彼に何を残すのかに関わっています。息子が大きくなって、私たちのもとを離れ、絶望したり、信仰が薄くなったりした時に、彼の信仰の友たちが「学んで確信したところにとどまろう。君のお父さんやお母さんを思い出して。お父さんお母さんが君に語ったことを、彼らがどのように生きたかを」と言われるような親になりたいと願います。

 

そのために、神様が、私たちを信頼できる人格と心からの愛をもって真理を伝える者へと変えてくださいますように。

 

息子と、あとどれぐらい一緒にいられるか分かりませんが、毎日の言葉や行い、態度や生き方を通して、彼に目に見えない信仰的、霊的な遺産をたくさん残したいです。つまり、二重の意味を持たせたいです。今の時にも彼にあって意味のあることを求め、未来において彼にとって意味のあることになることを求めます。

聖書勉強をリードする上での健全な動機

22歳でキリストに信じてから、キリストに全てを捧げようと献身を決意しました。

 

その後、神学教育を受ける機会を与えられ、教会の奉仕にたくさん関わり、聖書勉強のグループのリードも任せられました。これまで聖書勉強を導く機会をたくさん与えられてきましたし、神学生時代は説教をする機会も何度か与えられました。

 

現在もオンラインで行っている聖書勉強の進行役を務めています。

 

最近、思わされていることは、聖書勉強をリードする上での健全な動機を持ちたい、ということです。

 

それはつまり、不健全な動機を持ってしまうことがある、ということです。

 

神学生時代、当然ですが、自分は"評価される"立場にありました。

 

聖書勉強を良くリードしているか、聖書を良く教えることができるか、良い説教ができるか...。

 

当然、自分はその評価を気にします。

 

良いものを提供できなければ、神学の学びを修了することができません。自分の奉仕に満足できないと、または、良い評価を得られないと、焦り始めます。

 

そして、ますます、その動機が不純なものになっていくのです。

 

つまり、自分の評価、満足のための奉仕になってしまうのです。

 

それは、本当のところ、主のためでも、自分が仕える人たちのためのものでもなくなってしまうのです。

 

でも、主に仕えているという自負があるので、その奉仕の実質に対して何の疑いももたずに、一生懸命仕え続けます。

 

自分とは立場が違いますが、牧師たちが、同じように不純な動機を持って仕えている姿も見てきたと思います。「恥ずかしいところは見せたくない」「優れた牧師として見られたい」という思いです。そこから、「良い説教をしなければならない」「聖書を良く教えられなければならない」という思いが生まれ、仕えるのです。

 

トリッキーなのは、それでも正しいことをしているという自負の思いがあるのです。説教をすることや聖書勉強を導くこと自体は良いことであり、正しいことであると言えるでしょう。そして、「良い説教をしたい」「聖書勉強を良く導きたい」という思いも良いものです。でも、その根底にある動機が「自分の満足」のためであるならば、それは自分の欲望にかられ、自分の栄光を求めているのであり、神に対する真実な奉仕ではありません。

 

何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。

いのちの泉はこれから湧く。箴言4:23

 

みことばの奉仕に携わる者は、自分自身の心を絶えず吟味しなければならないでしょう。自分は本当に、神の栄光のために、他者の喜びのために仕えてるのかどうか...。

 

私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。2コリント1:24a

 

聖書では、多くの人が教師となってはいけないと語られています(ヤコブ3:1)。教師は厳しいさばきを受けます。

 

教師の役目を務める者は、畏れをもって仕える必要があるでしょう。そして、厳しいさばきを受ける者として、聖さを保ち、真実な奉仕に神様に捧げるのです。

子どもを叱る必要はあるか

子どもをどのように叱るのか。

 

息子が大きくなるにつれて、その理解が大分変わってきました。

 

以前までは割とよく怒ったり、叱ったりすることがありました。怒鳴り散らすことはありませんでしたが、息子の悪い行いに関しては基本的に厳しい態度で接していました。それは聖書がそのように語ってると考えていたからでした。私が生き方の土台に置いている聖書には、子どもに「懲らしめ」や「訓戒」を与えなさいと書いてあります。また、父親には「威厳」をもって子育てするようにも語られています。

 

しかし、今、振り返って思うことは、今までは「懲らしめ」や「訓戒」を与えることと、「怒る」ことや「叱る」ことをごっちゃにしていたように思います。そのため、厳しい態度で接し過ぎ、その結果、私が叱ることに息子が敏感になっていったように思います。

 

子どもを「怒りなさい」「叱りなさい」とは明確に書いてあるわけではないのにも関わらず、厳しく接し過ぎ、彼に負の影響を与えてしまったことを申し訳なく思います。まだ小さいうちに気づけたことに感謝し、自分の息子に対する態度や言動を改めている最中です。

 

今は、怒ることも、叱る(強い態度で責める)ことも控えるようにしました。悪いことは悪いと指摘しますが、感情的になったり、息子を圧するよううな態度は基本的に取らないことにしました。また、不機嫌になって、無言の否定的なメッセージを発することも控えるようにしています。

 

悪いことはきちんと指摘し、親の言うことに従えないのであれば、必要に応じて「懲らしめ」を与えます。それらを"怒り"や"厳しさ"からではなく、”愛”と"憐み"を持って行うように努めています。また親である自分が「常に品位を保って」感情的にならずに接するように努めています。

 

聖書は、子どもを「苛立たせてはいけない」「気落ちさせてはいけない」とも命じていますが、怒り過ぎる、叱り過ぎることで、子どもを落胆させたり、自尊心を失わせたり、子どもの心に恐怖心や反抗心を植え付けたりしてしまうのだと思います。

 

子供が大きくなれば「叱る」ことも必要になると思いますが、我が家では、子供がまだ幼いため、親が叱ることで子どもは取り乱したり、泣きじゃくったりして、コミュニケーションが取れなくなることが多いです。きちんとコミュニケーションを取るためにも、厳しく、強い態度や言動には配慮する必要があります。

 

親としてはすぐに言うことを聞かせたいがために、高圧的な態度をとってしまうことがあります。しかし、それは一時的な効果はありますが、恐怖心によるコントロールともなり、子どもに負の影響を与えてしまいます

 

聖書は、人の怒りは罪であり、神の義を実現しないと語っています。そして、怒るのにおそいようにとも命じています。怒りは怒り(反抗心)を生み、関係を破壊します。ちょっとしたことでもイラッとしてしまう私は、自分の子どもに対する怒りによって、将来罪の刈り取りをすることがないよう、神様に憐みを請う必要があります...。

 

今、私が持ってる結論は、品位を失わず、毅然とした態度で、罪や悪い言動を責める。そして、親の言うことに従えないのであれば、その罪の度合いに応じた、また、その子に相応しい懲らしめを、愛をもって与える。そして、子どもを哀れむ思いをいつも忘れない、というものです。

 

子育ては親育てだと日々感じます。つまらないことで怒ったり、イライラしてしまう自分に嫌になることもありますが、これからも神様が私を育ててくださり、子どもを守り育んでくださるので、希望を持って前に進んでいくことができます。