携挙はあるのか?
クリスチャンになってからずっと、私は「携挙」を信じてきました。
携挙とは、教会時代に救われたクリスチャンたちがみな、生きてる者も死んだ者も、イエス・キリストが天から戻って来られるときに、空中に引き上げられて、主に会い、その後、天に昇るというものです。
携挙のことを言ってるとされる代表的な聖書箇所は、第一テサロニケ人への手紙4章の後半です。
ここ最近ずっと、バイブルスタディで黙示録を学び、終末論を考えてきました。クリスチャンになってからずっと学んできた立場は「千年王国前患難期前携挙説」です。
千年にわたるキリストが統治される王国の前に、七年間の患難時代にやってくるが、その前にクリスチャンは携挙されるというものです。
他の終末論の立場に触れてきたことはほとんどありましたが、ずっとその立場が正しいのだと考えてきました。
他の立場のことも調べるようになった今でも、基本的にはその立場が正しいと考えています。
しかし、携挙に関しては、違う考え方を持つようになりました。
今では携挙は(おそらく)ないだろうと考えています。
私の周りにいたほとんどすべての牧師が携挙を信じていたので、携挙に関する情報、聖書的な根拠(だと考えられるもの)にはずっと触れてきました。
ただ、私が尊敬するジョン・パイパー師が携挙を信じてないと分かり、改めて携挙のことを考えるようになりました。
彼の説明を読み、他の終末論の考えも調べ、また、携挙の根拠とされる聖書箇所を丁寧に読み理解していった結果、携挙はないだろうと私も考えるようになりました。
クリスチャンになってからずっと信じてきたことであり、一つの大きな希望でもあったので、とてもショックでした。
おそらく、クリスチャンになってからここまで大きな自分の教理的な変化を体験したことはないでしょう。
第一テサロニケの4章からも、ヨハネの福音書14章の前半も、第一コリント15章も、ヨハネの黙示録3章からも、はっきりと「携挙」があると信じることはできません。
マタイの福音書24章の前半と第二テサロニケ2章の前半をよく理解するならば、イエスさまの頭の中にも、パウロの頭の中にも、「携挙」というものは存在しなかった野田ろうと考えることができます。
そして「携挙」がないと考えるようになって、色々な聖書箇所の意味がすっきり分かるようになりました。または、それぞれの箇所がつながるようになりました。無理やり、複雑な解釈をしなくても、単純に理解できるようになりました。
携挙がない、教会が患難時代を通過するだろうというのは、ショックなことでもありますが、聖書の真理は私たちを自由にします。
今は、心に不思議な平安と、今まで以上の希望があります。それは、様々な聖書箇所をすっきりと理解できるようになったことから来るものでしょう。
聖書全体で語られているように、イエスさまは、私たちをどんな中にあったとしても、
試練の中にあったとしても守ってくださるお方です。
わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネの福音書17章15節)