クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

プログラムに頼らない信仰継承

コロナウイルスのことがあり、教会に家族で集えなくなりましたが、以前よりも今の方が子供に対する信仰継承が前進していると思います。

 

聖書から弟子訓練を考える時に、弟子訓練は大きく分けてインストラクション(指導)とモデリング(模範)によって行われることが分かります。

 

そのことを考える時、考える力に乏しい子どもに対する弟子訓練(または信仰継承)はモデリングによりウェイトが置かれるべきだと思います。年齢が幼ければ幼いほど、そうなるでしょう。

 

幼い子どもに対する弟子訓練、信仰継承が、言葉で教えることを中心にするならば、おそらくそれは行き詰まるでしょう。上手く行かないからです。私自身がそれを体験しました。話してることをほとんど理解できない、または、概念的なことをまだ理解するのが難しい子どもに、淡々と福音を語ったとしても、子どもはそれを受け取ることができないからです。

 

"プログラム中心"の考えを持っていると、信仰継承もプログラムによって前進させると考えてしまいますが、必ずしもプログラムに頼らなくても信仰継承は前進させることができます。

 

神はイスラエルの民に、日常生活を通して子どもに信仰を継承しなさいと命じられました(申命記6:4-9)。

 

エスさまやパウロは、弟子たちと共に旅をし、生活を共有する中で弟子訓練を行われました。

 

プログラム中心の弟子訓練、信仰継承は本当に聖書的であると言えるか考える必要があると思います。もしプログラムだけだけに頼るのであれば、それは明らかに不十分ですし、神の御心に反しています。

 

神は日常生活の関わりの中で、子どもに対する信仰が継承されること、弟子訓練が行われることを望んでおられます。

 

そのことを考えた時に、特に考える力に乏しい未就学児や小学校低学年の子どもたちに対する信仰継承は1週間のうちの日曜日の教会学校の1時間でこそ前進するのではなく、それ以外の6日間23時間の中でこそ前進すると言えます。教会学校が決して悪いのではありません。ただ教会学校にお任せする信仰継承は明らかに問題があります。聖書のどこにも信仰継承の責任が教会学校の先生たちにあるとは書かれていません。むしろ聖書から考えるならば、子どもに対する信仰継承は親に委ねられているものだと言えます。子どもを持つクリスチャンはみな、(その子どものための)宣教師、伝道師です。

 

私たちの言葉、話し方、行動、態度、生き方を通して、神が与える栄光を、愛を、喜びを、福音を見せることができます。夫婦の関係からも三位一体の神様の交わり、愛、喜びを示すことができます。

 

私たち親が、神様のような親となる必要があるということです。

 

生活の色々な場面で、神を証しすることができます。

 

子どもに朝一番に笑顔で「おはよう」と伝えるときに、その子どもを心から愛し、喜ぶ父なる神様を表すことができます。

 

子どものために喜んで料理を作ることを通して、恵み深い創造主なる神様を示すことができます。

 

被造物の素晴らしさに感動する姿を表すことを通して、偉大な創造主を証しすることができます。

 

夫婦で愛し合うことを通して、完全な愛し合う交わりを持った三位一体の神を表すことができます。

 

すぐに不機嫌になったり、怒らないことを通して、怒るのに遅い神を示すことができます。

 

子どもが家に帰って来た時に温かく迎えることを通して、子どもを温かく迎えられるイエスさまを証しすることができます。

 

子どもと一緒に過ごすすべての時間、場面が、信仰継承の機会となります。そして、幼い子どもが、その模範を見続けて大きくなり、やがて聖書のみことばを深く学んでいくときに、体験的に理解することができるようになるのです。

 

私たちの信仰継承は、子どもが大きくなってから始まるのではなく、子どもが生まれた瞬間から始まっています。私たちの子どもに対する一つ一つの言葉、行い、態度がすべて、子どもたちに神を証しするものとなりますように。