クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

聖書に向かう気になれない...

一日の終わり、やっと自由な時間を得られ、ディボーションをしようと思うが、聖書に向かう気になれない。そんな時があります。

 

明確な理由があるときもあれば、なぜそのような気分になっているのかわからない時もあります。大抵、そんな時は気晴らしにユーチューブでサッカーの動画を見たり、Facebookやニュースを眺めたりして時間が過ぎていき、結局何もせずに終わってしまいます。。。

 

昨晩もなぜか聖書に向かう気になれませんでした。そこで、その時はこの現象についてしばらく静まって考えてみました。

 

そして、おそらくこのことは詩篇1篇から説明できると思いました。

 

詩篇1篇は「幸い」について書かれていますが、最初に「幸い」じゃない人についての説明があります。その説明は、幸いを失っていくプロセスについて述べられていると思います。

 

僕が聖書に向かえない時は、このプロセスをたどっているのだと思わされました。3つのプロセスがありますが、大抵、1番目まで行ってるか2番目まで行っています。

 

幸いを失い、心の平安が失われ、神との関係がギクシャクし、その心がみことばから離れていく..

 

プロセスの1番目は、肉的思考です。

 

例えば、嫌なことがあり、そのことが中々頭から離れません。そして、御霊が促す思いや考えではなく、肉の声に耳を傾け、肉的思考に陥り、主にある平安は失われ、心はざわざわし始めます。この時点では心に違和感を感じるでしょうが、まだ、意識的に御霊を排除してはいないので、神に立ち返りやすいと思います。

 

2番目は、肉の声に聞き従うことです。

 

肉的な思考をするだけでなく、実際に肉の声に聞き従うことを選びます。嫌なことがあったのを忘れるために、何かに没頭して忘れようとしたり、それを誰かのせいにしてその人に否定的な対応を取ったりします。この時点で、御霊がその心から排除されているため、聖書に向かう気が起こらなくなります。

 

そして、最後は、肉の支配です。

 

肉に自分が支配され、神を拒絶するようになり、思うことも考えることも話すことも行うことも、すべて神に敵対する方向性でなされます。僕も実際にこの段階まで陥ったことがありますが、それは本当に不幸でした。

 

罪人の自分は、このようなプロセスを辿ってしまう危険性が常にあると思います。もちろん、最後のステップまで至ることはそうないでしょうが、1番目と2番目を行ったり来たりすることは日常的にあると思います。

 

そんな罪に走りやすい私のために、キリストが十字架にかかってくださいました。

 

…(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」1ペテロ2:24

 

キリストは私がこの罪の歩みから離れ、義に生きるために死んでくださいました。

 

ここに私の勝利があります。彼の十字架のみわざが、私の生活から罪を消し去り、そこに義を生み出してくださいます。

 

私の罪を覆い、自身の義を被せてくださるキリストの贖いは、なんと恵みに満ちたものでしょうか。キリストにあって、私は罪に勝利し、義の道を歩むことができます。この方こそ、私の希望であり、救いです。