人格: 信仰継承において鍵となるもの
先日、妻のお母さんの命日を迎えました。ちょうど20年目でした。
彼女は天国にいますが、今も妻の心の中で生きています。彼女の信仰が、その言葉や愛の行いが、妻の心にしっかりと残っています。
妻が16歳の時に彼女は召されました。
妻にとって、母が亡くなることは何よりも辛いことでした。普通ならば、この先、どのように生きていけばいいか分からなくなり、絶望し、自暴自棄になってもおかしくなかったと思います。
しかし、妻は、悲しみの淵に立った時に一つのことを確信しました。
「(お母さんが信じた、そしてその生き方を通して伝えてくれた)神様がいるから、この先も大丈夫」と。
信頼するお母さんが信じた(信頼した)神様。
その信頼できる神様がいるから、お母さんがいなくても大丈夫。
そのように妻が絶望の最中で堅く信仰に立つことができたのは、お母さんが残してくれたものがあったからです。
母が言葉や行い、生き方を通して伝えてくれたものが、妻にとって悲しみの中での光、希望となり、神に対する揺るぎない信仰へと至らせてくれたのです。
パウロは、その当時、牧会に行き詰まり、意気消沈してたであろう愛弟子テモテにこう語ります。
「…あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が"だれ"から学んだかを知って…いるからです」(新約聖書・テモテへの手紙第二 3章14節)
テモテは、福音を祖母ロイス、母ユニケ、また、パウロから学びました。パウロは“だれから学んだか”を思い出させることで、テモテの信仰を支え、強めようとしています。
何を学ぶのか、どのように学ぶのかも大事ですが、だれから学ぶのかも大事です。
福音を教える者が、実際にその教えてる福音に生き、神様に対する揺るぎない信頼をもって生きる者であるか...。御霊の実を実らせた愛の人、人格者であかどうか...。そういったことが、福音を受け取る者の心、信仰に働きかけるものがあるのです。
信頼できる真理は、信頼できる人格を通して、受け継がれていくことが神様の御心です。そして、その受け継がれたことは、その人の信仰を生涯支えるものになります。妻の信仰を見て、そのことを思わされます。
おそらく、そのような深い信頼関係を築けるのは、子どもと一緒に住んでいる家族でしょう。身近な人でないと、子どもは心から信頼できる要因を見出すことができないからです。たまに聖書勉強で1時間だけ会う人を心から信頼することは簡単なことではないと思います。人の言葉が本当の意味で説得力を持つのは、その人の生き方、人格がその言葉と一致していることを見るときです。
だから、イエスさまもパウロも、弟子たちと共に旅をし、本当に自分がどんな存在なのかを、うわべではない自分の実質を弟子たちに示したのでしょう。
そして、イエスさまやパウロが弟子たちに伝えたことは、イエスさまとパウロが弟子たちの側からいなくなった後も、その信仰を支えるものになったのです。テモテにとっては、祖母と母の言葉と人格が彼の信仰を生涯支えました。
私は妻の母に会ったことはありませんが、妻の信仰を今もこれからも助けてくれる彼女に本当に感謝しています。天国に行ったら、たくさんお礼を言わなきゃいけません!
妻が体験したことを、私たちの息子も同じことを体験して欲しいと願っています。彼が大きくなった時、たとえ私たちがいなくなったとしても、私たちの生き方や人格を通して表された真理に、彼が確信をもって堅く立つことができますように。
毎日の彼に対する態度や言葉、行いが、彼に何を残すのかに関わっています。息子が大きくなって、私たちのもとを離れ、絶望したり、信仰が薄くなったりした時に、彼の信仰の友たちが「学んで確信したところにとどまろう。君のお父さんやお母さんを思い出して。お父さんお母さんが君に語ったことを、彼らがどのように生きたかを」と言われるような親になりたいと願います。
そのために、神様が、私たちを信頼できる人格と心からの愛をもって真理を伝える者へと変えてくださいますように。
息子と、あとどれぐらい一緒にいられるか分かりませんが、毎日の言葉や行い、態度や生き方を通して、彼に目に見えない信仰的、霊的な遺産をたくさん残したいです。つまり、二重の意味を持たせたいです。今の時にも彼にあって意味のあることを求め、未来において彼にとって意味のあることになることを求めます。