クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

聖書勉強をリードする上での健全な動機

22歳でキリストに信じてから、キリストに全てを捧げようと献身を決意しました。

 

その後、神学教育を受ける機会を与えられ、教会の奉仕にたくさん関わり、聖書勉強のグループのリードも任せられました。これまで聖書勉強を導く機会をたくさん与えられてきましたし、神学生時代は説教をする機会も何度か与えられました。

 

現在もオンラインで行っている聖書勉強の進行役を務めています。

 

最近、思わされていることは、聖書勉強をリードする上での健全な動機を持ちたい、ということです。

 

それはつまり、不健全な動機を持ってしまうことがある、ということです。

 

神学生時代、当然ですが、自分は"評価される"立場にありました。

 

聖書勉強を良くリードしているか、聖書を良く教えることができるか、良い説教ができるか...。

 

当然、自分はその評価を気にします。

 

良いものを提供できなければ、神学の学びを修了することができません。自分の奉仕に満足できないと、または、良い評価を得られないと、焦り始めます。

 

そして、ますます、その動機が不純なものになっていくのです。

 

つまり、自分の評価、満足のための奉仕になってしまうのです。

 

それは、本当のところ、主のためでも、自分が仕える人たちのためのものでもなくなってしまうのです。

 

でも、主に仕えているという自負があるので、その奉仕の実質に対して何の疑いももたずに、一生懸命仕え続けます。

 

自分とは立場が違いますが、牧師たちが、同じように不純な動機を持って仕えている姿も見てきたと思います。「恥ずかしいところは見せたくない」「優れた牧師として見られたい」という思いです。そこから、「良い説教をしなければならない」「聖書を良く教えられなければならない」という思いが生まれ、仕えるのです。

 

トリッキーなのは、それでも正しいことをしているという自負の思いがあるのです。説教をすることや聖書勉強を導くこと自体は良いことであり、正しいことであると言えるでしょう。そして、「良い説教をしたい」「聖書勉強を良く導きたい」という思いも良いものです。でも、その根底にある動機が「自分の満足」のためであるならば、それは自分の欲望にかられ、自分の栄光を求めているのであり、神に対する真実な奉仕ではありません。

 

何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。

いのちの泉はこれから湧く。箴言4:23

 

みことばの奉仕に携わる者は、自分自身の心を絶えず吟味しなければならないでしょう。自分は本当に、神の栄光のために、他者の喜びのために仕えてるのかどうか...。

 

私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。2コリント1:24a

 

聖書では、多くの人が教師となってはいけないと語られています(ヤコブ3:1)。教師は厳しいさばきを受けます。

 

教師の役目を務める者は、畏れをもって仕える必要があるでしょう。そして、厳しいさばきを受ける者として、聖さを保ち、真実な奉仕に神様に捧げるのです。