クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

行動修正ではなく心の変化を

妻と、子育てに関して、話すことがよくありますが、最近は「行動修正ではなく心の変化」を求めることを二人で再確認しました。

どうしても、目に見える行動にフォーカスを当て、行動を変えることでその場の問題を解決しようとしてしまいます。

「ごめんなさい」「ありがとう」と言えさえいいのではなく、または、おもちゃをシェアすればいいのではなく、それらを心から言い、行えるかどうかが問題です。それは行動ではなく、心・人格の問題です。

このことを考える時に、スポーツを熱心にやってた私は「行動修正ばかりを求めるところでは裏表が生まれる」ということを思い出します。厳しい監督の前では忠実そうにしてるのに、裏では全く違う態度を取っている光景をたくさん見てきました。。。

うわべの行動を変えることができたとしても、心が変わってないのであれば、それは本当の変化ではない。それはコントロールであり、教育ではない。そのことを言い聞かせつつ、明日も息子に接したいです。

彼が親のもとを離れた時に、自分自身で、心から良いこと、正しいことを行うことができるように、忍耐しながら教え諭していきたいです。

外出禁止中に試される家族の絆

現在、外出禁止中にある我が家。

 

先週、日本からオーストラリアに帰って来たため、二週間、家に閉じこもっていなければなりません。

 

自宅待機が始まる前は、どんな2週間になるのか不安もありましたが、始まってみると、とても幸せな生活になっていました。

 

それは、1日24時間、ずっと家族で過ごせるからです。

 

次の日も次の日も。

 

特に息子はお父さんともお母さんともずっと一緒にいられて大喜びです。

 

妻は自宅で仕事をすることがありますが、それでもみんな家の中にいるというのは、普段はあまり感じられない、安心感というか、幸福感というか、どこか温かい思いを持つことができます。

 

とても感謝なことに、10日以上が経過した今まで、一度も夫婦喧嘩をしていないし、息子を怒ったりしてないことです。

 

結婚して6年以上、息子を授かって3年以上経ちましたが、その間で神様が私たちの家族関係を取り扱ってくださったがゆえに、今の幸せな日々をもたらす家族の絆があるのだと思います。

 

家族が一緒にいるというのは本当に素晴らしいことですね。

 

そのような恵みを心から感じさせてくれる神様に感謝です。

聖なる仕事としての子育て

世界中でコロナウイルスが大きな騒ぎ、問題となってる中でも、

 

自分自身の日々の生活の中で、神様が喜ばれる歩みを求めたい。

 

昨日、自分自身の子育てに対する態度について悔い改めを迫られた。

 

クリスチャンにとって、

 

子どもは神様からの賜物(詩篇127:3)

 

である。

 

子どもは私のもの(所有物)ではなく、

 

神様のものであり、神様から預けられたもの。

 

だから、神様が望まれるように教育する責任が私たちにはある(エペソ6:4)。

 

子育ては、絶対的な権威を持ったお方から委ねられた聖く、尊い責任である。

 

その責任を、私は、どこか甘く考えてるところがあった。

 

子育てという働きを行う時よりも、有給の仕事を行う時の方が、厳格な態度で行う。

 

上司も同僚もいない、また、給料も出ない働きである子育てを甘く見ている自分がいる。

 

最も悔い改めさせられたのは、子どもが一人遊びに熱中した時など、暇ができればスマフォを見ようとすることである。

 

もしイエスさまが私の立場に立たれたら、目の前にいる子どもに集中し、その子を祝福し、色々なことを積極的に教え、その子との時間を大切にするはずである。

 

出来損ないの親である自分について、神様に申し訳なく思う。

 

しかし、こんな自分だからこそ、神様は助けを与えてくださる。

 

最大の助けである聖霊様の力によって、息子を全身全霊を持って愛することができますように。

 

 

 

聖書が語る幸いな人

詩篇1篇1節には、幸いな人が有していない性質について書かれています。

 

そして、詩篇1篇2節には幸いな人が持っている特徴について書かれています。

 

聖書が語る幸いな人は、

 

1. 主の教えを喜びとする

 

人です。

 

詩篇1篇2節にはこうあります。

 

主のおしえを喜びとし

 

その人の喜びの源には主の教えがあります。

 

テレビやインターネット、スポーツや仕事、異性関係や家族関係などの通常、人が最も喜びとするものではありません。

 

その人にとって、聖書は堅苦しいもの、退屈なものではありません。

 

聖書を学ぶことは、その人の心にこの上ない喜びをもたらすのです。

 

だから、その幸いな人は、聖書に親しみ続けます。それが聖書が語る幸いな人の二番目の特徴です。

 

2. いつも主の教えを黙想する

 

詩篇1篇2節にはこうあります。

 

昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。

 

脚注には「口ずさむ」という表現について、「あるいは、思い巡らす」とあります。

 

この詩篇が書かれた時代は、現代のように、一人一人の信仰者が聖書を持つことなど出来ない時代です。おそらくシナゴーグにみことばが写し書きされた巻物が保管され、集会の際に代表者が読み上げ、それを聴衆が聞くという形で、人々はみことばに接していたでしょう。

 

なので、彼らは毎日自分で聖書を開けるわけではないため、日々みことばを思い巡らして生きていたのです。「口ずさむ」と書かれているように、実際に声を出しても覚えていたのでしょう。

 

みことばを喜びとする人は、みことばを日常の中で思い巡らし、みことばがもたらす喜びや平安を味わって生きています。

 

日々、色々なことが起こる中で、願わくは、私の頭はみことばで満たされていたいものです。

 

 

 

 

本当の愛とは何か?

ヨハネの手紙第三1節にはこうあります。

 

長老から、愛するガイオへ。私はあなたを本当に愛しています。

 

著者であり長老のヨハネは、ガイオという人物を本当に、(別訳では)真実に愛していました。

 

そして、この手紙の内容から、ヨハネの真実な愛がどのようなものであったかをうかがい知ることができます。

 

1. 真実な愛は「祈り」にあらわれる

 

2 愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。

 

誰かを真実に愛するということは、その人のために真実に祈るということです。

 

その人が、心も体も、あらゆる面で神様からの恵みを受けるように。

 

ヨハネはガイオを真実に愛していました。だから、ガイオのために真実に祈りました。

 

私たちのは、誰のための祈りで満たされているでしょうか? 自分のことを祈り、自分のことを願う祈り一辺倒になっていませんでしょうか? 私自身の祈りのことを考える時、反省させられます。自分のためにはたくさん祈ったとしても、他者のための祈りがどれだけ少ない者でしょうか。

 

愛の人は、祈りの人です。

 

愛がない人は、(他者のための)祈りの浅い人です。

 

キリストの愛を知れば知るほど、私たちは聖霊の力によって愛の者へと変えられていくでしょう。そして、他者の最善のために祈る者へと変えられていくでしょう。自分自身のうちには愛がなかったとしても、私たちの愛の主に確かな希望があります!

 

 

2. 真実な愛は「喜び」にあらわれる

 

3 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちを歩んでいます。

4 私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上に大きな喜びはありません。

 

ヨハネは、ガイオに関する良い知らせを聞いて、喜んでいました。その内容は、ガイオが真理に歩んでいるということでした。

 

ガイオに対する真実な愛を抱くヨハネは、ガイオに関するニュースによって真実な喜びを抱きました。

 

彼は、そのようなニュースを聞くこと以上に大きな喜びなないと言っています。

 

ヨハネの真実な喜びは、他者の歩みに基づくとしたものでした。

 

自分の歩みに基づくものではなかったのです。

 

私たちは、自分の歩みに基づく喜びを求めがちになってしまわないでしょうか?

 

自分に対する祝福、恵み、自分の満足、成功といったものが生活の焦点になってしまうことがあるでしょう。また、私たち自身の歩みばかりにフォーカスが向きがちです。私が真理に歩んでいるかどうかばかり気になり、他者には目がいかないのです。真理のうちを歩んでいるようで、結局は自己愛に生きてしまいます。

 

主に対する愛に生きる者は、他者を愛します。

 

そして、他者を愛する者は、他者の祝福された状態を心から喜ぶのです。

 

 

3. 真実な愛は「行動や言葉」にあらわれる

 

ガイオが真理のうちに歩むことを喜びとしていたヨハネは、ガイオのために手紙を書き送ります。

 

彼は、ガイオが置かれている状況を心配していました。ガイオが属する教会内にいたデメテリオという人物を警戒していたのです。

 

ヨハネはガイオのことをただ心で心配するだけでなく、手紙を書き送るという具体的な行動を取ります。

 

真実な愛は、言葉や行動にあらわれます。

 

ヨハネは、手紙を書き送るだけでなく、ガイオに直接会いたいと、会ってもっと話したいと言っています。

 

誰かのことを愛していると言っていながら、その人のために何もしないのならば、その愛は真実なものではありません。

 

ヨハネは、イエス・キリストの愛弟子です。

 

キリストから直接、愛の弟子訓練を受け、愛の人へと変えられていったのです。

 

私たちも、ヨハネと同じ主をもっています。

 

キリストのことばを心に豊かに宿らせ、キリストの力によって、愛の人へと変えられていきましょう。

 

そうすれば、他者のために真実に祈り、他者の祝福を真実に喜び、他者のために真実な言動を取る者になることが出来ます。

詩篇51篇: 解説⑵

詩篇51篇は、ダビデの悔い改めの祈りが記されています。

 

私たちは、罪を犯す度にこの詩篇を読み、祈り、自分の罪深さを覆ってくださる神の恵を改めて思い、偉大な神の憐みを受け、ますます神を褒め称えるようになります。

 

今回は、この詩篇が書かれた背景について学びましょう。

 

第二サムエル11,12章にそのストーリーは記されています。

 

当時、イスラエルは敵国と戦をしていました。

 

11章1節にはこうあります。

11:1a 年が改まり、王たちが出陣する時期になった。

 

王が出陣するべき時に、ダビデは戦場に赴きませんでした。

11:1b ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエル全軍を送った。彼らはアンモン人を打ち負かし、ラバを包囲した。しかし、ダビデエルサレムにとどまっていた

 

ダビデは、家来たちと共に出陣し、軍隊を率いるべきでしたが、彼はエルサレムにとどまっていました。おそらく宮殿でのんびりしていたのでしょう。

 

この時、イスラエル王国は繁栄と安定を迎えていました。ダビデイスラエルの北王国と南王国を統一し、エルサレムを首都とし、宮殿を完成させ、主のために神殿を立てる計画も立てていました。隣国の軍事勢力も衰え、万事が順調に進んでいる時期です。イスラエルを脅かすような敵国はもはや存在しなかったのです。

 

人間の心は、物事が自分の思い通りに運ぶと、神様から離れてしまう危険があります。

 

もしかしたらダビデは、神様に頼る必要性を感じなくなっていたのかもしれません。また、自分が神の計画を前進させる器でしかないことを忘れてしまったのかもしれません。彼は戦場で軍隊を率いるという王としての務めを果たさずに、自分に委ねられている神の王国の指導者としての責任を少しずつ放棄し始めます。

 

そんな彼の心は快適さを求め、誘惑を受け易い状況にありました。

 

1:2 ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女がからだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

 

王の宮殿は、エルサレムの街を守るために、急な丘の上にありました。そして、その丘沿いにある家々を上から一望することができました。

 

その宮殿の屋上からダビデは一人の美しい女性がからだを洗っているのを目撃しました。「からだを洗う」とは、モーセの律法の一環として、体の部分的な汚れを水で流す聖めの儀式を行っていた可能性があります。

 

1:3 ダビデは人を送ってその女について調べさせたところ、「あれはヒッタイト人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバです」との報告を受けた。

 

彼女の美しさを一目見るなり、ダビデはすぐに家来を送り、部下に彼女のことを調べさせました。彼女は、ヒッタイト人ウリヤの妻で、名前をバテ・シェバと言いました。

 

ウリヤは非常に優れた兵士でした。彼は、ダビデ直属の37人から成る護衛隊の一員でした(2サム23:39)。また、バテ・シェバの祖父は、ダビデの右腕として活躍した参謀の一人、アヒトフェルでした(2サム23:34)。

 

ダビデの詮索はもちろん神に喜ばれることではありません。それは彼が最終的に犯す罪の始まりでした。

 

彼は誘惑にたとえ遭ったとしても、神に祈り、その先のステップ(詮索)には進むべきではありませんでした。しかし、人の心に宿る罪の力は、人間の良識を狂わせます。ダビデは自分の欲望を満たす思いに捕われ、自分の王としての権力を悪用しました。

 

続く...

悔い改めの祈り 詩篇51篇 ⑴

詩篇51篇は、自分の罪の重さを理解したダビデの悔い改めの祈りです。

 

前書きにはこうあります。

 

ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとにきたときに。

 

ダビデは、預言者ナタンにバテ・シェバとの姦淫の罪を正され、自分の救いようのない罪深さを直視しました。

 

彼は自分が罪を犯したことを分かっていても、ナタンに指摘されるまで、その罪の重さをよく理解していなかったのです。

 

自分の罪深さを知ったダビデ

 

彼は、自分の罪がどれほど醜いものであったとしても、神様はその罪から自分を救うことができる偉大なお方であるという確信を持っていました。

 

だから、彼は主に祈るのです。

 

自分自身がどれだけ酷い者であるかを理解させられたとしても、クリスチャンは失望することなく、主に対する確信と希望を持って前に進むことができます。

 

どのような罪からでも、へりくだって神に近づくなら、神はそれらを赦し、また、回復へと導いてくださいます。

 

私たちは、罪を犯すと、それを無視して忘れようとするか、何度も思い返して自分自身に失望します。

 

罪を犯した時、私たちはこの詩篇を読み直す必要があります。

 

自分自身の罪を直視しながらも、神の圧倒的な恵み、憐みの中で、平安と希望を見出すのです。

 

私たちは、自分自身の罪深さと同時に底無しの神のあわれみの深さに目を留め、新たな希望を持って再スタートします。

 

そして、その先には、罪赦された者だけが捧げられる礼拝と賛美の生活が待っているでしょう。

 

罪人を悔い改めに、また、主に対する礼拝に導くのがこの詩篇の役割と言えるでしょう。