クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

クリスチャンのビジョンはどんなものであるべき?

サッカーをしていた時も、クリスチャンになってからも、個人的な目標やビジョンを持つことはとても大切なことだと思っていました。
 
しかし、ここ1,2年、改めて自分はクリスチャンとしてビジョンを持つべきなのか、また、持つべきだとしたらどのようなビジョンを持つべきなのかを考えさせられています。
 
それは、ビジョンを持つことを勧めていると考えていた箴言29章18節の理解が変わり、また、自分で考えたビジョンがたとえ霊的で良いものに見えたとしても、それは不利益や問題を生み出す可能性があると理解するようになったからです。
 
今の時点で僕が結論として考えたことは、”御国”と”栄化”の二つを自分のビジョンとして掲げようということです。
 
もちろん、それ以外の自分の人生に関する具体的な"願い"はあります。しかし、それはビジョンではなく"願い"です。
 
僕が、自分の人生に実現させたいことを具体的に考え願ったとしても、あくまでそれは人から生まれたものであり、神が啓示されたものでないがために絶対的なものではないということ、また、それは神が私にみことばを通してはっきりと見せてくれる"御国"と"栄化"のビジョンから目をそらさせる危険性があることを覚えていなければならないと思います。
 
自分のビジョンは御国と栄化であり、それ以外はあくまで自分の願いにとどめておく...。なので、たとえ明日僕の命が取られるとしても、僕のビジョンは必ず実現します!僕の願いが実現しなかったとしても、それは神の最善のご計画によることなので、全く問題ありません。しかし、仮に僕が絶対に叶えたいビジョンを掲げ、何年もの間、毎日努力した上で、それが実現せず明日死ぬとしたら、僕はそのことを受け入れるのはとても難しくなると思います。ということは、そのような生き方は、神のご計画よりも僕のビジョンの方が、その人生と心を満たしているものだったということになると思います。
 
僕の願いは、御国と栄化を自分のビジョンとすることで、日々の思いや行いが神のご計画ではなく自分の計画やビジョンに左右され、自分の目が天ではなくこの世界の事柄に向きっぱなしになるのではなくて、思いと行いが神のビジョンに導かれ、目は天を仰ぎ見て生きるようになることです。
 
その時、聖書が語るように、天に国籍のある者として、この地上で寄留者として人生を歩めるのではないかと思います。