私たちの背後で生きて働かれる神
様々なことがあり、最近はパッとしない日々を歩んでいる。
普段よりも、神様との距離を感じる。
そんなこともあり、ブログのアップも滞っていた。
問題が起こると、自分の心や不安定になる。そして、それが嫌になる。
さらに、自分の感情を保つのに時間を取られ、生産的な時間の使い方ができなくなる。
そして、さらに嫌になる。
問題によって、心の奥底から生まれる平安や喜びが失われる。
しかし、実際には、試練は誘惑に陥る機会になるだけでなく、人格が精錬される機会ともなる。自分の受け止め方と対処の仕方によって、プラスにもマイナスにもなるのである。
問題が起こると、自分の運命を呪う。
"なぜ?"という否定的な思いに包まれる。
しかし、それでも自分のうちには確かな思いがある。
"神は今も生きて働いてくださっている"
"御霊はこんな私のうちに住んでくださっている"
エステル記には、神の御名が一度も出てこない。
また、エステルやモルデカイの祈りに対する明確な言及がない。
しかし、それでもエステル記を通して、神が確かに生きて働かれ、その歴史に介入されていることがわかる。
神の摂理の御手が随所にあられている。
サタンや悪霊の力がどんなに私たちのそれを超えていても、人間の罪を自分の力では克服できなかったとしても、神はそれらに打ち勝つことができる。だから、主にあって希望を抱くことが、どんな時でもできる。
すべては神の摂理のもとにある。
神の支配の外にあることはない。
私は、主にあって希望を持ち続ける。
私は、主にあって希望を持ち続ける。
私は、主にあって希望を持ち続ける。