クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

クリスチャンにビジョンは必要?

クリスチャンはビジョンを持つべきか、また、持つべきだとしたらどのようなビジョンを持つべきなのかを考えています。

 

以前までは確信をもって「イエス!」と答えていました。そう言い切っていた背景には、いくつかの理由がありました。

 

⑴ 一般的に良いことだと言われるから。

⑵ 他のクリスチャンから良いことだと教えられたから。

⑶ ビジョンを抱き、それを実現したクリスチャンの証しに感銘したから。

⑶ 聖書がビジョンを持つことを勧めていると考えていたから。

⑸ 聖書に登場する信仰者たちがビジョンを持って歩んでいるから。

 

この中で、一番大きかった理由は⑷です。

 

箴言29:18にはこのように書かれています。

 

「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」

 

この「幻」という言葉は、英語訳聖書では「vision」とも訳されます。

 

以前までは、この「幻」「ビジョン」という言葉を、一般的に使われるような意味で理解していました。つまり、「目標」「理想の未来像」「将来のあるべき姿とそれに至る構想」というような意味合いです

 

そして、この箇所から、人間は幻、ビジョンがなければ、つまり、目標を持って歩んでいなければ、自分勝手に生きてしまうと考えていました。

 

しかし、丁寧にこの箇所を見ていくと、この「幻」「ビジョン」は、一般的に使われるような意味で、ここでは使われていないことがわかりました。これは口語訳で「預言」と訳され、幾つかの英語訳聖書では「revelation」と訳されているように、この節は「啓示」のことについて言われています。なので、19節の後半では幻とは別の啓示、つまり「律法」が出てきます。

 

この理解の変化があってから、クリスチャンにビジョンが必要であることをどのように聖書的にどのように説明できるのか疑問に思うようになり、改めて聖書に基づいて考えました。

 

今、クリスチャンはビジョンを持つべきだと考えています。しかし、ビジョンであればどのようなものでも良いのではなく、字義的解釈に沿った聖書理解から明確に説明できるものであるべきだと思います。

 

たとえ霊的に見えるビジョンで、自分がこれは良いものだ、このような将来像を目指したいと心から思えるものでも、クリスチャンに不利益を生み出すビジョンもあると考えています。

 

それはまるで、箴言29:18から、ビジョンが必要だと考え、将来のあるべき姿を思い描き、それに歩んでいるけれども、神の啓示からは離れ、自分勝手に生きているようなものだと思います。

 

私が思い描くビジョンが、神の啓示から自分を離し、自分中心の生き方を生み出すものとならず、神の啓示に歩むことを促すものとなりますように。