クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

"ディボーション"はしなきゃいけない?

クリスチャンが、静まって神様との交わりを時間を持つことを「ディボーション」と呼びます。クリスチャンによってその具体的な方法は若干異なると思いますが、一般的には、聖書やディボーションガイドを開いて、みことばを観察し、解釈し、適用し、祈るといったものだと思います。

 

僕はディボーションを推奨し、強調する教会で育ったこともあり、また、聖書を個人的に読んで学び適用することがとても重要だと考えていたがために、「クリスチャンはディボーションをしなければならない」と思い、できないことは恥ずかしいことだと思っていました。また、ディボーションは朝に行うべきであり、それは相応しいステップに則って行うべきだと考えていました。とても真面目ですね。笑

 

ディボーション以外でも、ミニストリーの導き方やプログラムの計画と実施の仕方、聖書勉強や教会行事への参加、趣味や休日の過ごし方、献金やお金の使い方などに関しても、「こうあるべき」「こうでなければならない」という自分のなりの考えを持っていました。

 

もちろん聖書が明確に語っていることについて、「それをすべき」だと考え行うのは当然でしょう。ただ、聖書が明確に語っていないことについても、自分の中でルール化し、そのルールに自分を一生懸命当てはめようとしていました。また、周りの人を自分の考えに基づいて見たり、自分のルールに当てはめようとしたりしていました。

 

今振り返ると、自分の確信に基づいて、自分のルールに生きる分には良かったのですが、それをもとに他者を評価したり、自分のルールに当てはめようとしたりしていたことは良くないことでした。

 

そのようなクリスチャンライフを送っていた僕に、問題が生じるようになりました。それは、妻と交際するようになってからです。性格も異なり、他の教会で信仰生活を歩んでいた彼女と僕とでは、信仰の中身に関しては一致がありましたが、信仰生活の考え方やそのスタイルにおいてはかなり異なるものを持っていたからです。

 

彼女から私に対して、彼女の信仰生活の型に当てはめようとすることはあまりなかったように思いますが、僕は良いものをシェアしているという気持ちを持ちながら、自分の考えを彼女にかなり押し付けていました。時に彼女はそのことで息苦しさを感じていたでしょう。。。

 

冒頭で述べたディボーションに関しても、聖書に「ディボーション」という言葉が出てくるわけでもないですし、もちろん時間や方法に関する明確な命令もないわけですから、神との交わりを個人的にどのように持つのかに関しては、聖書が示す諸原則に沿って行うべきでしょうが、絶対的な考え方や方法はないと思います。

 

僕はディボーションは朝にやるべきだとし、その方法も自分のやり方で行うよう彼女に押し付けようとしていました。

 

今思えば、その他にも、聖書が明確に教えていないグレーゾーンの事柄に関して、自分としては「こうでなければならない」「クリスチャンとしてこうあるべきだ」という確信のもとに、彼女に押し付けていました。

 

聖書は、グレーゾーンの事柄に関しては、各々が自分の確信に立って、「主のため」という動機のもとに行うことを勧めています。そして、自分の確信とは異なる人たちをさばかないようにとも教えています。

 

こうしたことを徐々に知るようになってから、主との交わりも各々が確信することに基づいて行うべきだと思うようになりました。また、いわゆる"ディボーション"というような形ではなく、他の形で主との交わりを個人的に持ったりするのも、それはそれで良いことだと思うようになりました。僕も、現在は以前のような形でのディボーションを行わずに、自分に合った形を探し続けています。もちろん、その方法は、個人の自由なのだから自分の感覚で好き勝手にやっていいということではなく、聖書が示す神様と交わりを持つ上での諸原則に則って考えられるべきだと思います。

 

このようなグレーゾーンの事柄に関して、初代教会の時代には、ユダヤ人信者と異邦人信者の間で、多くのトラブルがあったと聖書には書かれています。

 

ユダヤ人と異邦人でなくても、他の家庭で生まれ育ち、また、他の教会で信仰生活を歩んできた場合、こういったトラブルが結構生まれる可能性があると、実体験から思わさます。笑

 

クリスチャンの夫婦の信仰生活はどのようなものであるべきでしょうか? 今までも信仰の中身においても表現においても一致があることを目指していましたが、今は信仰の中身においては一致があり、その表現に関しては多様性があって良いと考えるようになりました。ただ、信仰の中身の一致が深まっていき、信仰の表現もより生き生きとしたものとなり、お互いの違いも喜び、そのことによっても主をほめたたえる結婚生活を歩んでいきたいです。

 

画一的な一致を目指すのではなく、「主のために」という動機における一致を共有し、多様性のある主との交わりを共に喜んでいきたいです。家庭が主への賛美と主にある喜びに溢れた場となりますように!