クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

どうしたら聖書が分かるようになるのか?

毎週教会に通ったり、聖書勉強に取り組んだりされている方でも、

 

「聖書は難しい」

「読んでも意味がよく分からない」

「聖書の理解が深まっていってると感じられない」

 

というような悩みを抱えることがあります。

 

 

そして、"聖書は難しい"という悩みを抱えると同時に、"聖書が分かるようになりたい"という思いも持っています。

 

「聖書をもっと楽しく読めるようになりたい」

「自分で読んで分かるようになりたい」

「年々聖書理解を深めて、誰かにシェアできるようになりたい」

 

このような"聖書が分かるようになりたい"という願いを心のどこかに持っているのです。

 

私も以前までは、聖書は難しいと感じ、聖書を読んだり学んだりするのを億劫に感じていました。また、聖書を自分で読んでいても楽しず、苦痛に感じることも多くありました。分かりにくい神のことばよりも、分かりやすい人の言葉(テレビや本など)の方を求めてしまい、罪悪感を覚えることもありました。

 

しかし、聖書の正しい読み方について学んだことで、聖書が"分からないもの"から"分かるもの"に変わりました。それまでは聖書をどのように読むのかをきちんと学んでいなかったため、自分の感覚で読んでいたのですが、ある一つのことを意識するようになってから、大げさにいえば聖書が意味不明なものから理解可能なものになっていったんです。

 

今回は、その聖書の正しい読み方の最も基本的な一つのことにみなさんにシェアします。

 

実は、一つのことを意識するだけで"聖書が分かる"ようになるんです。

 

その一つのこととは、聖書を読むときに著者の意図を知ろうとするということです。

 

私たちが聖書を読むときに、理解すべき最も重要なことは、

著者の意図です。

 

著者の意図が分かれば、その箇所の意味が分かったということです。

 

当然のことのように聞こえるかもしれませんが、私は"聖書が分かる"ということがどういうことなのかが分かっていませんでした

 

具体的に言うと、私は聖書を読むときに、「この箇所は私にとってどんな意味があるか」と問いながら、"私にとっての意味"を探していたのです。私の心に響き、私の問題を解決してくれ、私の疑問に答えてくれるようなメッセージを得ようとしていました。

 

しかし、私が行っていた"私にフォーカスを向けた読み方"は間違った読み方であることを学びました。

 

そして、正しい読み方は、私フォーカスではなく、著者にフォーカスを向けた読み方、著者の意図を探り当てる読み方だと学んだんです。

 

「著者は一体何をここで言いたいのか?」

と自分の頭の中で問いながら聖書を読みます。

 

そして、著者の言いたいことが分かれば、本当にその箇所が分かったと言えるのです。

 

どんな箇所でも「この箇所で、一体著者は何を言いたいんだろうか?」と問うことが聖書を理解する鍵です。

 

"聖書が分からない"から、"聖書が分かる"ようになるために、自分の頭に湧いてくる思いや考えは脇に置いて、著者の頭の中にあることを突き止めることを意識しましょう。

 

 

"私がどう思うのか"ではなく、

"著者が何を言いたいのか”が大切です。

我が子のイヤイヤ期に悩む...

息子が2歳1ヶ月ぐらいになりました。

 

よく言われるイヤイヤ期に突入し、自分の欲求を主張するようになり、私たち親と対立することがとても増えました。

 

難しいのは、言語でのコミュニケーションを取ることがままならないこと。

 

子どもの思いを汲み取ることも、こちらの思いや考えを伝えることも十分にできません。

 

なので、余計、私たち親も、息子も、ストレスが溜まります。

 

そして、実際の子育ての現場、その場その場での神様からの命令はもちろんないので、大まかに示されてる聖書の指針に沿って、待った無しのその場の状況で考え、判断し、実行しなければなりません。

 

私としては、愛に傾くべきなのか、正しさ(厳しさ)に傾くのかを結構悩みます。

 

そして、同じクリスチャンでも夫婦でも意見が食い違うことも結構あります。子育てで疲れる中でも、そこの擦り合わせ、相談もする必要があるので、「子育ては簡単じゃないなぁ」と最近は毎晩思わされてます。

 

簡単に答えが出せない毎日ですが、それでも、そのようなプロセスを通して、神様が私たちを訓練してくださっているのだと信じています。

 

子育ては、神様の親育てでもあります。

 

完璧にできなくても、むしろ失敗ばかりしてしまうような気がしますが、神様によって親としてより良く変えられていくことを願い求めながら、これからも子どもに接していきたいです。

 

 

相手に良く思われなくても...

「相手に自分がどう思われてるか?」

 

この問いを常に意識して、自分は生きてるような気がします。

 

相手にどのように思われてるのか、また、(自分の言動によって)思われるのかが、自分の感情や行動に大きく影響します。

 

つまり、「相手に良く思われる」ことを求めながら生きているという事ですね。

 

だから、相手に嫌われないようにします。

 

だから、相手に嫌われているのならば、相手の感情を良くするために何らかの働きかけをしようとします。

 

そして、相手が自分を良く思ってるのならば、自分は不快感を持たずにいられるのです。

 

「相手に良く思われたい」という欲求、また、「相手の感情を良くするために何かをする」という行動、そして、「相手に良く思われてることによって自分が満たされる」という満足感は、果たして良いものでしょうか?

 

基本的に、相手の感情はコントロール不可能なので、そのような動機や願いを持って生きるのならば、振り回されることになるでしょう。そして、神様が求められる生き方から外れてしまうのではないでしょうか? それは、相手の求める生き方になるかもしれませんが、神様が求める生き方にはならないでしょう。

 

また、コントロール不可能な相手の感情をコントロールしようとする事は、自分を神様の位置に置こうとすることにもつながるような気がします。

 

このように、様々な点で、「相手に良く思われるための生き方」は間違っています。

 

相手の感情をコントロールする事は出来ませんし、神様もそれを求めてはおられないでしょう。

 

私たちは、自分の感情の所有者です。

 

そして、私たちクリスチャンは、自分の感情を自分の内に住む御霊の力によって正しいものとするように神様から求められています。

 

私たちのフォーカスは、相手の感情ではなく自分の感情でしょう。相手の感情に左右されずに、御霊によって満たされて生きることこそ神様が求めておられることであり、相手に良い影響を与え、相手を愛する道だと思います。

 

‘嫌いでも愛する’ことが出来るキリスト者

普通、好き嫌いは感情によるものです。

 

しかし、愛は意思によるものです。

 

多くの場合、人は好きという感情に基づいて他者を愛そうとするでしょう。

 

反対に嫌いならば愛することをしません。

 

とても単純です。

 

好き嫌いが愛するかどうかを左右するのです。愛とは何かという問いは置いておいて...。

 

感情にはパワーがあるので、好き嫌いを超えて行動するというのはかなり難しいでしょう。

 

しかし、キリスト者には聖霊が内在しています。聖霊の力によって、意思を強く持ち、感情を超えて行動することが出来るのです。そして、聖霊に満たされて行動する時に、自然と感情も喜び、平安で満たされます。

 

好きだから愛する、嫌いだから愛さないという現象はもしかしたら、夫婦の間でよく生まれるかもしれません。

 

聖書は、夫婦の愛を教えています。結婚式で誓約するように、その愛は感情や状況を超えたものです。

 

よくもまぁそのような愛を誓うことが出来るなぁと思いますが、それは無理なことではなく、キリストにあって私たちには可能なことなのです。むしろキリストにあるならば、自然にそのような愛の行動を取るでしょう。キリストにある限り、嫌いでも愛することは無理なことではありません。普通に出来ることです。

 

この理解はとても大切だと思います。なぜならば、嫌いでも愛するのは難しすぎる、無理だ、と考えていれば、その時点で愛することをやめてしまうからです。神の力に頼ることもやめてしまいます。

 

しかし、キリストにあった私は何でも出来ると確信しているならば、キリストの力によって嫌いな相手を愛することができます。隣人を愛するようにと教えたお方が私たちを助けてくれるからです。

 

キリスト者にはとって、愛することは難しくありません。キリストにあるならば、それはとても自然なこと、とても簡単なことだと言えるのではないでしょうか。キリストは無限の愛と力を持っているのですから。

お金があったら献金しますか?

ある説教者が、このようなことを話したのを覚えている。

 

「お金があまりないから献金しないと思ってる人は、お金が有り余るようになってもそんなに献金しない。」

 

マケドニヤの諸教会は、苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、また、極度の貧しさの中にあっても、惜しみなく献金を捧げていた。

 

彼らは決して、「パウロさん、私たちはお金をたくさん得たら献金します」とは言わなかった。

 

彼らは神の恵みに出会い、満ち溢れる喜びを得ました。

 

その満ち溢れる喜びが財布の中からお金を溢れ出させました。

 

神の恵み

満ち溢れる喜び

惜しみない捧げもの

 

このようなパターンを見て取ることができます。

 

私たちはお金がないから捧げないのではなく、

神の恵みがもたらす満ち溢れる喜びがないから捧げないのです。

 

神の恵みは、私たちを喜んで与える愛の人に変えていきます。

 

 

家族みんなで動物園へ

今日は午後から家族三人で動物園へ。

 

息子のお昼寝が終わったのが二時半頃。

 

そんな時間からでも、動物園で充実したファミリータイムを過ごせました。

 

僕らは本当にアデレードでのんびり暮らせています。

 

最近はつくづく、オーストラリアに来て良かったなぁと日々思っています。

 

ゆっくり流れる日常の中で、主をほめたたえ、夫婦で恵みを数え、そして、息子に主の素晴らしさを感じて欲しいと願いつつ過ごしています。

 

そんな僕らには動物園は最高の場所です。

 

将来、教会学校などで神の創造について学ぶのもとても良いと思いますが、日常の中で、家庭で、子どもが創造のみわざを知り、驚きながら育っていく方がもっと大事だと思います。

 

毎日の何気ない日々の中に、主をほめたたえる要素は満載です。それらを見逃さずに、子どもと共有しながら歩んでいきたいです。

  

だから、1日1日を、息子と過ごす"今この時"を大事になきゃね。

 

 

 

耳だけを働かせる

最近学んだこと。

 

何もしないことが愛することになる

 

ただ妻の隣に座って話を聞くことが、愛することになる。

 

知らなかったわけじゃありませんが、改めて気づかされました。

 

行動主義の僕は、何か目に見える行動を取ることこそが愛することだと自然に考えてしまいます。

 

家事を手伝う

美味しいものを買ってくる

花を買う

手紙を書く

etc

 

でも、そういったことをするよりも、ただ妻の側に座って、じっと目を見つめて、耳を傾けるだけで愛することになる。

 

何と安い愛なんだ...。笑