クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

‘嫌いでも愛する’ことが出来るキリスト者

普通、好き嫌いは感情によるものです。

 

しかし、愛は意思によるものです。

 

多くの場合、人は好きという感情に基づいて他者を愛そうとするでしょう。

 

反対に嫌いならば愛することをしません。

 

とても単純です。

 

好き嫌いが愛するかどうかを左右するのです。愛とは何かという問いは置いておいて...。

 

感情にはパワーがあるので、好き嫌いを超えて行動するというのはかなり難しいでしょう。

 

しかし、キリスト者には聖霊が内在しています。聖霊の力によって、意思を強く持ち、感情を超えて行動することが出来るのです。そして、聖霊に満たされて行動する時に、自然と感情も喜び、平安で満たされます。

 

好きだから愛する、嫌いだから愛さないという現象はもしかしたら、夫婦の間でよく生まれるかもしれません。

 

聖書は、夫婦の愛を教えています。結婚式で誓約するように、その愛は感情や状況を超えたものです。

 

よくもまぁそのような愛を誓うことが出来るなぁと思いますが、それは無理なことではなく、キリストにあって私たちには可能なことなのです。むしろキリストにあるならば、自然にそのような愛の行動を取るでしょう。キリストにある限り、嫌いでも愛することは無理なことではありません。普通に出来ることです。

 

この理解はとても大切だと思います。なぜならば、嫌いでも愛するのは難しすぎる、無理だ、と考えていれば、その時点で愛することをやめてしまうからです。神の力に頼ることもやめてしまいます。

 

しかし、キリストにあった私は何でも出来ると確信しているならば、キリストの力によって嫌いな相手を愛することができます。隣人を愛するようにと教えたお方が私たちを助けてくれるからです。

 

キリスト者にはとって、愛することは難しくありません。キリストにあるならば、それはとても自然なこと、とても簡単なことだと言えるのではないでしょうか。キリストは無限の愛と力を持っているのですから。