西野采配に見るイエス・キリスト
誘惑との闘い
人間には誘惑との闘いがあります。
僕は最近、周りの人に対する接し方やフリーな時間の使い方において、誘惑との闘いがあります。
自分の欲求を満たすことを優先するのか、なすべきことなすのか。
これは、僕の昔のからの闘いであると同時に、罪人である人間の避けられな闘いです。
そして、この闘いは、人間の内側で起こっていると思います。内側にあるものが外に出るからです。行動に現れている時には、すでに頭で決断しています。
なので、"何をするのかしないのか"ということよりも、誘惑に対して"どのような思考をするべきなのか"を考えるべきだと思います。
それなしに生きていると、感覚的にで物事を判断して時間を過ごしてしまい、簡単に誘惑に陥ってしまうでしょう。
イエスさまのサタンの誘惑に対処する方法も同じでした。イエスさまはサタンの言葉に、みことばをもって返答されました。誘惑にあった時に、みことばに基づいて考え、行動したのです。これが正しい誘惑に対処する方法でしょう。
自分の欲求のままに考え、行うのではなく、立ち止まってみことばに基づいて考え、行動する必要があります。
誘惑に陥る時に、大抵の場合は"自分が何をしたいか"もしくは"何をしなくないか"を考えるでしょう。しかし、みことばに基づくならば、"みことばは何と命じているか"、"神様は何を喜ばれるのか"を考えます。そして、そのことを思い巡らす中で、みことばを通して御霊が働き、誘惑に勝利することができるのでしょう。
大阪での地震
大阪での地震、驚きました。
被害に遭われた方、また、そのご家族のために祈っています。
震度6弱の地震と聞いて、真っ先に東日本大震災を思い出しました。
自分が体験したあの揺れ(に似た揺れ)を大阪の方々が体験されたと思うと、人事とは思えません。
震災の日以降、1,2週間は異常な精神状態にありました。本来の自分ではない自分がそこにはいたように思います。
ある程度の時間と、聖書のみことばを通して、徐々に心が回復していきました。特に、スマトラ沖地震を経験された牧師が書いた『津波の後で』という小冊子が、僕にはとても助けになりました。自身の体験をもとに書かれたものだからこそ、大きな慰めを与えてくれます。
被害に遭われた方のことを覚え祈りつつ
※デイリーブレッドのサイトでPDFをダウンロードできるみたいなので、リンクを貼っておきます。
私たちの背後で生きて働かれる神
様々なことがあり、最近はパッとしない日々を歩んでいる。
普段よりも、神様との距離を感じる。
そんなこともあり、ブログのアップも滞っていた。
問題が起こると、自分の心や不安定になる。そして、それが嫌になる。
さらに、自分の感情を保つのに時間を取られ、生産的な時間の使い方ができなくなる。
そして、さらに嫌になる。
問題によって、心の奥底から生まれる平安や喜びが失われる。
しかし、実際には、試練は誘惑に陥る機会になるだけでなく、人格が精錬される機会ともなる。自分の受け止め方と対処の仕方によって、プラスにもマイナスにもなるのである。
問題が起こると、自分の運命を呪う。
"なぜ?"という否定的な思いに包まれる。
しかし、それでも自分のうちには確かな思いがある。
"神は今も生きて働いてくださっている"
"御霊はこんな私のうちに住んでくださっている"
エステル記には、神の御名が一度も出てこない。
また、エステルやモルデカイの祈りに対する明確な言及がない。
しかし、それでもエステル記を通して、神が確かに生きて働かれ、その歴史に介入されていることがわかる。
神の摂理の御手が随所にあられている。
サタンや悪霊の力がどんなに私たちのそれを超えていても、人間の罪を自分の力では克服できなかったとしても、神はそれらに打ち勝つことができる。だから、主にあって希望を抱くことが、どんな時でもできる。
すべては神の摂理のもとにある。
神の支配の外にあることはない。
私は、主にあって希望を持ち続ける。
私は、主にあって希望を持ち続ける。
私は、主にあって希望を持ち続ける。
俺って大丈夫かな?と思うとき
たまに、聖書を信じる自分のことを「俺って大丈夫かな?」と思うことがあります。
特に、将来必ず起こると聖書預言を信じている自分に、ふと「こんなことよく信じられるな」と思うことがあります。
自分の信仰のことを考えると、たまに疑問に思うことがあるんです。
大丈夫かな?と。
こんなとき、自分の思いや感覚、また、世の常識に自分の考えを沿わせてはいけません。
真理は、自分の感情や感覚、また、世の常識ではないからです。
真理は、自分の思いによって決まりません。また、多数決によっても決まりません。
単純にいえば、自分がどう思うかはそのことが真理かどうかであることには関係ないのです。また、他の人がどう考えているか、また、何と言うかも関係ないのです。
そのことを覚えなければなりません。
そうでないと、自分の信仰は揺らいでしまうでしょう。
私は、自分の思いや他者の意見を絶対化するのではなく、聖書の真理を絶対化します。
そして、真理に基づいた考えに生きることを選びます。
人間関係に対する恐れ
人間は心の深いところで、麗しい人間関係、絆を求めていると思う。
自由に、親しく語り合える存在を人間は求めている。
クリスチャン用語で言えば「交わり」だ。
僕は、交わりに生きるのが下手である。これはずっと抱えている課題だ。
幾つかの理由があるが、主たるものは、人間関係に対する "恐れ"だと思う。
深い交わりを持ちたいという思いがある反面、相手にどう思われるか、相手と打ち解けられるかなど、心に恐れがあるため、積極的になれない。
"恐れ"は、健全な人生を歩むのを邪魔する。
恐れによって、論理的に考えて相応しい行動を取るのをやめてしまう。
ただ一言、「どこかで時間取れる?」と聞いてみればいいのに、相手がどう思うかなどを気にして、それをしない。
このまま恐れに支配される人生を歩むならば、多くの恵みを受け損ねるだろう。
聖書には度々「恐れるな」という神の励ましのメッセージが出てくる。
神に信頼する者にも、恐れる状況が多々ある。しかし、神はその恐れに打ち勝つことを求めておられ、そのために励ましを与えてくださる。
自分に甘く、人には厳しく
自分に甘く、他人に厳しくしてしまう。
意図的にそうしているわけではないのに、ついついそうなってしまう。
それが良くないことだとわかってるのに。
相手の失敗を見聞きしたとき、それを言葉に出さなくても、頭の中には批判的な考えが、心の中には否定的な思いが生まれる。とても自然に。
そうしようと意識しているわけではないのに。
そんな自分のことを考えるときに、思わされる。
やっぱり自分のうちには罪がある。
自分はとても善人とは言えない、罪深い、自己中心的な存在だ。
普段、自分はそんな悪い人間じゃないと思うが、本当はそうじゃない。
自分の本心があらわれ、本当の自分に向き合うならば、すぐに自分のうちには真実な愛がないことがわかる。心から相手を心配する、憐れみの思いがない。
その人の心境を察しようととするよりも、瞬時に相手をさばく思いに満たされる。
とても自然に、自分中心に生きてしまう自分には"救い"が必要だ。自分の力では変われることができないから。
罪深い自分を、根本から変えてくださる キリストにただただ感謝します。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。...私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」新約聖書ローマ人への手紙7章より