クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

母の日

今日は、眞理が生まれてから2回目の母の日です。

図らずも眞理が"参加した感"のある母の日となりました

母の日に贈るプレゼントとカードを眞理と僕と二人で買いに行き、僕が準備したプレゼントを眞理からママに渡してもらいました。

恵美もとても喜んでいて、嬉しかったです。もちろん眞理はよくわかっていませんが...笑

そんな2018年の母の日を通して、子どもに母親を敬うように導く必要があることを改めて教えられました。

聖書は子どもに対して、両親を敬うようにと教え、命じています。しかし、それは自然には起こりません。親の働きかけ、導きが必要です。もちろん、それは日頃から必要でしょうが、母の日”という機会に父親が子どもと一緒に、母親を敬おうとすることは、子どもに聖書に生きることを促し、励ますことになると思わされました。

また、その反対となる影響を与えないよう、改めて僕の妻に対する言葉遣いや態度にも気をつけなければいけないと思わされました。僕の妻に対する言動を通して、母親を敬う模範を示したいものです。

最近、眞理はママに怒られると、泣きながら僕のもとに歩み寄ってくることがあります。このような時にも、眞理がママを敬い、ママに従うのを妨げないようにしないといけないと思わされます。つまり、簡単に眞理に対して「怒られて可哀想に」と子どもの側に付くようにしてはいけないと思っています。

母の日にだけではなく家庭に尊敬の文化を家長として築き上げていきたいです。

この罪人の家庭を神が憐れんでくださり、御霊の助けによって、お互いを愛し、尊重する心と態度を持つことができますように。

子育てに必要なこと

子育てをしながら、「子育ては”闘い”」だと思わされることがあります。
 
子どもを相手にすると、思うとおりにいかないことが多々あります。それが立て続けに起こると、時にかなりストレスが溜まってしまいます。
 
親は親の思いや考えを中心に物事を進めようとします。
 
そして、子どもは自分の思いに従って動きます。また、親が予期せぬことも起こります。
 
そして、事がうまく運ばなかったり、両者の思いもぶつかったりすると、親も子どももストレスが溜まり、イライラします。こうなると、子育ては"闘い"だと思わされるのです。
 
また同時に、そのような状況でもイライラせずに忍耐し、状況によらない愛を持ち続けるには、人格的な成熟がなければどうしようもないと思わされます。いくらお金や物があっても解決することはできません。
 
そう考えると、子育てに最も必要なことの一つは、その自己中心性(罪)からの解放、”救い”だと思います。
 
真実な"愛"で愛し、"喜び"をもって仕え、慌ただしい日々の中でも心に”平安"を保ち、イライラするようなことがあっても"寛容さ"と"親切さ"にもって接し続け、その子にとって良いことを進んで行う"善意さ"を失わず、毎日のことでも心を込めて"誠実"に行い、時に"柔和さ"を持って他者からの指摘を受け入れ、自分のやりたいことを"自制"して子どものためになることを求め続ける、そんな子育てをするには「救い」が必要です。
 
親として、もちろん子どもを育てるのですが、それと同時に神の子どもである自分が天の父によって取り扱われ続け、救われ続ける(聖化され続ける)ことを願います。

夫婦のコミュニケーション

以前よりも、夫婦でのコミュニケーションが増えたような気がします。今は、ほとんどありませんが、結婚初期の頃は二人でいても会話がない時間というのが結構あったと思います。会話が少なかった理由の一つはおそらく、自由に話せない事柄が結構あったことでしょう。
 
 
結婚してしばらくは、お互いの考え方が異なる部分について話し合うのが難しかったです。もちろん依然として難しい事柄もありますが、今まで話し合うのが難しかったことについても徐々に話せるようになってきていると思います。
 
夫婦の親密さや成熟度は、コミュニケーションにあらわれると思います。お互いが、または一方が、話しにくい、聞きにくい話を、どれだけオープンに落ち着いて話し合えるのかが一つの測りになるのではないでしょうか。
 
日々コミュニケーションにおける失敗をしてしまいますが、御霊と御言葉によって聖化されていくことを通して、夫婦間のコミュニケーションにおいてもよりよく変えられていきたいです。

愛がなければ...

子どもを育てるために色々なことをしますが、それらは大抵ルーティン的なことです。ご飯を作って、食べさせて、おしめをかえて...。だからこそ、なんとなくやったり、こなすようにやったりしてしまいます。

 

でも、それを"愛"をもってやりたいと思わされました。聖書は良いように見えることでも、愛がなければ天における価値や意味がないと語ります。

 

「子どものためにあれもやった、これもやった」と思いながら天に行って、子育てに対する報いを期待して御前に出たが、あんまり褒美をいただけない...なんてことになったら悲しいですね。

 

眞理を、また、何よりも神様を愛するために、"いつものこと"も、"眞理の将来につながること"、また、"天につながること"として取り組みたいです。

 

そのためには、自分のうちには真実な愛がないので、いかに神との親しい交わりに生き、御霊の実である愛を実らせることができるかが鍵だと思います。親子関係の前に、神との関係が問われますね。

ジョン・ウェスレーの『キリスト者の完全』を読んで

今日は、Bible College SAの公開授業に参加してきました。

 

二つあった講義のうちの一つはジョン・ウェスレーの生涯についての学びでした。配布されるノートがなかったので、耳だけで英語を理解するのは難しく、途中で諦めてKindle Unlimitedにあった彼の著書『キリスト者の完全』を読んで僕なりに学びました。笑

 

読みながら、ここまで聖さ献身主にある喜び聖化(キリストの御姿に変えられること)”を追求するクリスチャンがいたのかと、強い感銘を受けました。

 

サッカーの指導をしていた時、天井効果という考えを持っていました。一般的には違う意味合いで使われるかもしれませんが、僕としては、このような意味で捉えていました。

 

あるチームの中で一番上手な選手は、そのチーム内における天井となり、刺激を得られず、それ以上伸びづらくなる。また、それ以外の選手は、そのチームで一番上手い選手以上には伸びなくなる。つまり、チーム内で一番上手い選手がそのチームの天井となる、ということです。他の表現で言えば、「井の中の蛙大海を知らず」と言えるでしょうか。

 

チーム内における天井効果を崩すために、強いチームと闘ったり、違う世界を知るために遠征をしたりすることが効果的だと考えていました。

 

僕は、クリスチャンの世界でもこの天井効果は怒ると思います。他の教会のクリスチャンとの交流があまりない人、違う教派教団のクリスチャンとの交流がない人は、そのような現象に陥る可能性が大きいでしょう(だからと言って、どんな集会にも参加すれば良いというわけではありません)。様々なクリスチャンや教会、特に成熟した信仰者たちに出会うことは、信仰の世界を広げることにつながると思います。

 

今回、ジョン・ウェスレーの信仰について触れられたのは、僕にとって、自分の信仰の世界を広くし、その天井を高くすることにつながったと思います。

 

彼は『キリスト者の完全』でこう書いています。

 

「天地を治める王から与えられた律法は、これです。『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』(マルコ12:30)。唯一の完全ある善が、あなたの究極の目標であるべきです。唯一の目的としてあなたが追求することがあるとしたら、それはすべてにおいてすべてである神を喜ぶことです。たましいにとっての唯一の幸福は、それを創造された神と一つとなること、『御父および御子イエス・キリストとの交わり』(1ヨハネ1:3)を持つこと、そして『主と交わって、一つの霊とされること』(1コリント6:17)です。あなたが世の終わりに至るまで追求すべき唯一の目的は、この世で、そして永遠にあって、神を喜びとすることです。この目標にかなう限りで、他の事柄を欲しなさい。何かを愛するとしたら、それが創造者への愛につながるときです。しかし、そのひとつひとつのステップにおいて、神を喜びとすることを、あなたの目指す栄光ある目標とするのです。どんな情愛も思いも、言葉も行いも、この目標に向かうように心がけるのです。あなたが望むことも恐れることも、求めることも避けることも、何を語っても行っても、すべて、あなたの幸福を神の中に見いだすことを心がけなさい。神のみが、あなたの存在の源泉であり、唯一の目的なのです」

 

彼はクリスチャン生活を本当に真剣に捉え、すべてが神に対する愛の表現となるように、また、すべてを通して神を喜ぶように努めるべきだと語っています。彼は言葉で語るだけでなく、それを真剣に目指していたでしょう。日曜日だけでなく、聖書勉強やディボーションの時だけでなく、あらゆる時に、あらゆる場所で、彼はそれを心がけていたのだと思います。

 

使徒パウロはこう語りました。

 

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを捕るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。ピリピ3:12

 

この地上でのクリスチャンとしての歩みには、どこまで行っても、これで良いということはありません。たとえ、自分の教会内で最も成熟していたとしてもそうです。

 

“…あなたがたは、私たちの天の父が完全なように、完全でありなさい。マタイの福音書5:48

 

これが神が求めておられることです。だから、ジョン・ウェスレーはキリスト者の完全という言葉を語っているのです。完全な聖さと義を持った神によって、ますます聖化されることを祈り、目指していきたいです。

クリスチャンにとっての二つの論理

【クリスチャンにとっての二つの論理】
 
クリスチャンとして生きていく上で、人間の論理を捨てて、神の論理に生きることを選択するべき状況があると思います。
 
例えば、将来に対して心配を覚える時、「今の状況が○○だから、将来〇〇になるかもしれない」「もし○○が起きたらどうしよう」と人間的に考えます。そして、その状況がそのように心配して当然のものだったとします。
 
でもクリスチャンにとっては同じ状況に別の論理が存在します。主が私の羊飼いがであるため、私のすべての必要は満たされ、主が私に最善のご計画をお持ちで、すべてをそのご計画に基づいて支配し、導かれるので、私には絶望的な状況は存在しない、という神(聖書)の論理です。
 
または、自分にとって好きになれない相手がいたとして、相手が自分にしたことや相手の嫌な性格等を思い浮かべ、「あの人は嫌われて当然だ」「〇〇だからあの人を好きになれない」と考えます。たとえそれが誰の目から見てもそう言えるとしても、主はどんな相手をも、敵をも、愛し、祝福するように命じています。それは、神の敵であった自分が神に愛され、罪赦され、救われ、神の子にまでされたことを考える時には、当然の神の恵みに応答する生き方です。これが神の論理です。
 
日々、どちらに立って生きるのか闘いがあります。私たちの身体が贖われるまで、その闘いは続きますが、御霊は神の論理に生きれるように助けてくださいます。そして、キリストの十字架によってすでに勝利が約束されています。なんと憐れみ深い神でしょうか、勝利を与えてくださる神をほめたたえます!
 

霊的リーダーシップを持つために

霊的リーダーシップを持つためにはどうしたらいいのか?

 

新約聖書に書かれた長老(霊的リーダー)の条件は、家庭をよく治めることのできる人物である。教会をリードする前に、家庭をリードできているのかが、選別の基準となっている。また、これは牧師を目指す者だけでなく、家長としての責任を委ねられているすべてのクリスチャン男性のチャレンジでもあるだろう。

 

僕は、家庭をよくリードしたいという思いがありながらも、それが十分にできていないことを残念に思うことが多い。霊的な面で、家庭をどう導けるのか。もちろん以前よりは成長しているものの、もっともっと自然体で、キリストの臨在に溢れて家庭をリードできたら幸いだと思わされます。

 

霊的リーダーシップを持つためにまずすべきことはおそらく、自分自身をリードすることだろう。具体的には、自分自身がキリストにリードしてもらえるよう、キリストの弟子としてのアイデンティティに生きることだろう。家庭を治める前に、まず自分自身がキリストに支配され、満たされることが必要になると思う。逆にいえば、自分の罪や他者の目、その場の雰囲気などに左右されずに、それらのものに打ち勝って、霊的にその場をリードするのである。

 

他者をリードする前に、自分自身がキリストにリードされる。自分自身が霊的に生きることなしに、霊的なリーダーシップを持つことはできません。キリストにあって生きることなしには、人々をキリストのもとに導くことはできません。

 

この世から、また、他者から悪影響を受ける時も、自分がそれらにリードされるのではなく、御霊にリードされることを祈り求める必要がある。人から影響を受けて人をリードするならば、それは霊的リーダーシップではない。キリストから影響を受けて人々をリードするのが霊的リーダーシップである。

 

しかし、この堕落した世の中で、罪を持った自分が、同じように罪を持っている人たちの周りで生きるとなると、多くの問題を抱え、容易に霊的リーダーシップを失ってしまいます。

 

家庭においても、誰か一人でも不機嫌な人がいると、その場の雰囲気はネガティブな方向に傾いていく。その時に、相手の感情に自分自身がリードされるのではなく、自分がキリストにあるポジションから出てしまわないように気をつけないといけない。

 

相手がどうのこうのではなく、愛し続け、仕え続け、祝福を祈り続けるところに、キリストの支配にあるリーダーシップが生まれてくるのだろう。