母の日
今日は、眞理が生まれてから2回目の母の日です。
図らずも眞理が"参加した感"のある母の日となりました
母の日に贈るプレゼントとカードを眞理と僕と二人で買い
恵美もとても喜んでいて、嬉しかったです。もちろん眞理
そんな2018年の母の日を通して、子どもに母親を敬う
聖書は子どもに対して、両親を敬うようにと教え、命じて
また、その反対となる影響を与えないよう、改めて僕の妻
最近、眞理はママに怒られると、泣きながら僕のもとに歩
母の日にだけではなく家庭に尊敬の文化を家長として築き
この罪人の家庭を神が憐れんでくださり、御霊の助けによ
子育てに必要なこと
夫婦のコミュニケーション
愛がなければ...
子どもを育てるために色々なことをしますが、それらは大抵ルーティン的なことです。ご飯を作って、食べさせて、おしめをかえて...。だからこそ、なんとなくやったり、こなすようにやったりしてしまいます。
でも、それを"愛"をもってやりたいと思わされました。聖書は良いように見えることでも、愛がなければ天における価値や意味がないと語ります。
「子どものためにあれもやった、これもやった」と思いながら天に行って、子育てに対する報いを期待して御前に出たが、あんまり褒美をいただけない...なんてことになったら悲しいですね。
眞理を、また、何よりも神様を愛するために、"いつものこと"も、"眞理の将来につながること"、また、"天につながること"として取り組みたいです。
そのためには、自分のうちには真実な愛がないので、いかに神との親しい交わりに生き、御霊の実である愛を実らせることができるかが鍵だと思います。親子関係の前に、神との関係が問われますね。
ジョン・ウェスレーの『キリスト者の完全』を読んで
今日は、Bible College SAの公開授業に参加してきました。
二つあった講義のうちの一つは“ジョン・ウェスレーの生涯”についての学びでした。配布されるノートがなかったので、耳だけで英語を理解するのは難しく、途中で諦めてKindle Unlimitedにあった彼の著書『キリスト者の完全』を読んで僕なりに学びました。笑
読みながら、ここまで”聖さ”や”献身”、 ”主にある喜び”や“聖化(キリストの御姿に変えられること)”を追求するクリスチャンがいたのかと、強い感銘を受けました。
サッカーの指導をしていた時、”天井効果”という考えを持っていました。一般的には違う意味合いで使われるかもしれませんが、僕としては、このような意味で捉えていました。
あるチームの中で一番上手な選手は、そのチーム内における天井となり、刺激を得られず、それ以上伸びづらくなる。また、それ以外の選手は、そのチームで一番上手い選手以上には伸びなくなる。つまり、チーム内で一番上手い選手がそのチームの天井となる、ということです。他の表現で言えば、「井の中の蛙大海を知らず」と言えるでしょうか。
チーム内における天井効果を崩すために、強いチームと闘ったり、違う世界を知るために遠征をしたりすることが効果的だと考えていました。
僕は、クリスチャンの世界でもこの天井効果は怒ると思います。他の教会のクリスチャンとの交流があまりない人、違う教派教団のクリスチャンとの交流がない人は、そのような現象に陥る可能性が大きいでしょう(だからと言って、どんな集会にも参加すれば良いというわけではありません)。様々なクリスチャンや教会、特に成熟した信仰者たちに出会うことは、信仰の世界を広げることにつながると思います。
今回、ジョン・ウェスレーの信仰について触れられたのは、僕にとって、自分の信仰の世界を広くし、その天井を高くすることにつながったと思います。
彼は『キリスト者の完全』でこう書いています。
「天地を治める王から与えられた律法は、これです。『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』(マルコ12:30)。唯一の完全ある善が、あなたの究極の目標であるべきです。唯一の目的としてあなたが追求することがあるとしたら、それはすべてにおいてすべてである神を喜ぶことです。たましいにとっての唯一の幸福は、それを創造された神と一つとなること、『御父および御子イエス・キリストとの交わり』(1ヨハネ1:3)を持つこと、そして『主と交わって、一つの霊とされること』(1コリント6:17)です。あなたが世の終わりに至るまで追求すべき唯一の目的は、この世で、そして永遠にあって、神を喜びとすることです。この目標にかなう限りで、他の事柄を欲しなさい。何かを愛するとしたら、それが創造者への愛につながるときです。しかし、そのひとつひとつのステップにおいて、神を喜びとすることを、あなたの目指す栄光ある目標とするのです。どんな情愛も思いも、言葉も行いも、この目標に向かうように心がけるのです。あなたが望むことも恐れることも、求めることも避けることも、何を語っても行っても、すべて、あなたの幸福を神の中に見いだすことを心がけなさい。神のみが、あなたの存在の源泉であり、唯一の目的なのです」
彼はクリスチャン生活を本当に真剣に捉え、すべてが神に対する愛の表現となるように、また、すべてを通して神を喜ぶように努めるべきだと語っています。彼は言葉で語るだけでなく、それを真剣に目指していたでしょう。日曜日だけでなく、聖書勉強やディボーションの時だけでなく、あらゆる時に、あらゆる場所で、彼はそれを心がけていたのだと思います。
“私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを捕るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。”ピリピ3:12
この地上でのクリスチャンとしての歩みには、どこまで行っても、これで良いということはありません。たとえ、自分の教会内で最も成熟していたとしてもそうです。
“…あなたがたは、私たちの天の父が完全なように、完全でありなさい。”マタイの福音書5:48
これが神が求めておられることです。だから、ジョン・ウェスレーはキリスト者の完全という言葉を語っているのです。完全な聖さと義を持った神によって、ますます聖化されることを祈り、目指していきたいです。
クリスチャンにとっての二つの論理
霊的リーダーシップを持つために
霊的リーダーシップを持つためにはどうしたらいいのか?
新約聖書に書かれた長老(霊的リーダー)の条件は、家庭をよく治めることのできる人物である。教会をリードする前に、家庭をリードできているのかが、選別の基準となっている。また、これは牧師を目指す者だけでなく、家長としての責任を委ねられているすべてのクリスチャン男性のチャレンジでもあるだろう。
僕は、家庭をよくリードしたいという思いがありながらも、それが十分にできていないことを残念に思うことが多い。霊的な面で、家庭をどう導けるのか。もちろん以前よりは成長しているものの、もっともっと自然体で、キリストの臨在に溢れて家庭をリードできたら幸いだと思わされます。
霊的リーダーシップを持つためにまずすべきことはおそらく、自分自身をリードすることだろう。具体的には、自分自身がキリストにリードしてもらえるよう、キリストの弟子としてのアイデンティティに生きることだろう。家庭を治める前に、まず自分自身がキリストに支配され、満たされることが必要になると思う。逆にいえば、自分の罪や他者の目、その場の雰囲気などに左右されずに、それらのものに打ち勝って、霊的にその場をリードするのである。
他者をリードする前に、自分自身がキリストにリードされる。自分自身が霊的に生きることなしに、霊的なリーダーシップを持つことはできません。キリストにあって生きることなしには、人々をキリストのもとに導くことはできません。
この世から、また、他者から悪影響を受ける時も、自分がそれらにリードされるのではなく、御霊にリードされることを祈り求める必要がある。人から影響を受けて人をリードするならば、それは霊的リーダーシップではない。キリストから影響を受けて人々をリードするのが霊的リーダーシップである。
しかし、この堕落した世の中で、罪を持った自分が、同じように罪を持っている人たちの周りで生きるとなると、多くの問題を抱え、容易に霊的リーダーシップを失ってしまいます。
家庭においても、誰か一人でも不機嫌な人がいると、その場の雰囲気はネガティブな方向に傾いていく。その時に、相手の感情に自分自身がリードされるのではなく、自分がキリストにあるポジションから出てしまわないように気をつけないといけない。
相手がどうのこうのではなく、愛し続け、仕え続け、祝福を祈り続けるところに、キリストの支配にあるリーダーシップが生まれてくるのだろう。