クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

あぁ聖書って面白い!

僕は聖書が大好きです。こんなに面白い本は他にないと確信しています。

 

聖書は66巻ありますが、そこには、不思議な統一性、一貫性があります。それは、聖書が究極的にはあるひとりのお方、創造主なる神によって書かれたものだからだと信じています。

 

そして、聖書を構成する66巻すべてがある一人のお方を指し示していると言われます。それはイエス・キリストです。

 

聖書の中心、神のご計画の中心は、イエス・キリストです。その視点を持って聖書を読むときに、聖書はどこを読んでも本当にエキサイティングな本になると思います。

 

今日も明日も明後日も、この分厚く、とても知り尽くせない聖書を通して、人間の脳ではとても味わい尽くせないキリストの素晴らしさを味わっていきたい!

 

"それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。"ルカ24:27

 

ビル・ハイベルス牧師引退に思う

アメリカのメガチャーチを牧会し、世界各国でリーダー育成に取り組み、多数の著書も出されているビル・ハイベルス牧師が引退しました。

性的不品行が取り沙汰されたことが原因で、予定よりも早く引退したそうです。彼の著書は何冊も読み、尊敬していたので残念です。

クリスチャントゥデイに記事があります。
http://www.christiantoday.co.jp/…/bill-hybels-resigns-willo…

真相はわかりませんが、彼はこう述べています。

「避けた方が賢明だったであろう状況に、自分の身を置いたことが多過ぎました。そのような状況によって生み出される結果について、私の認識が甘いこともありました。私の側に知恵が足りなかったことを、残念に思っています。今後は同様の状況に身を置かないよう、肝に銘じます」

このコメントを読んで、異性との関係には注意が必要だと改めて思わされました。ダビデがそうだったように、信仰者であっても、霊的に成熟していたとしても、異性との関係において罪を犯す危険性があります。だからこそ、知恵を持って対処する必要があるのだと思います。

その点では、僕はクリスチャンになりたての頃から丁寧な指導を受けることができて感謝でした。具体的なアドバイスも含めて、結婚の純潔を保ち、性的な誘惑を受けないように注意する術と意識を植え付けていただきました。

聖書は「知る」という言葉で男女間の親密な関係、性的関係を表します。それに基づいて考えると、たとえ一線を超えていなかったとしても、相応しくない形で異性を性的に「知る(知ろうとする)」ならば、つまり、性的刺激や楽しみを持つ(持とうとする)ならば、それは神の御心に反したことでしょう。

男女によって注意すべきことは異なりますが、視覚においても、会話においても、スキンシップ(身体の接触)においても、感情的また知的な面での刺激・反応においても、結婚外で性的な刺激を受けないように注意する必要があると思います。それを怠り、結婚外で性的刺激を味わう(味わおうとする)ようになると、神様の御心から外れ、悲しい結果に至るのだと思います。

罪人である人間は自分の力で清さに歩むことはできません。だからキリストが十字架にかかってくださり、罪の赦しを与え、義と清さに生きる力を与えてくださいました。この方に頼って、聖さに歩んでいくことができますように。

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」1テサロニケ4:3

聖書的に考えてユーモアはありか

【クリスチャンとして"ユーモア"をどのように考えるか】
 
僕は白黒はっきりさせたいタイプなので、"ユーモア"が聖書的に善いのか悪いのかはっきりさせたいと思ってきました。
 
聖書の中にイエスさまが笑ったという記述はありません。また、聖書の記述の中で、ユーモアを推奨している箇所は、僕が知る限りありません。
 
だからと言って、イエスさまがユーモアを用いなかったとも言えないし、聖書的がユーモアを必要ないと語っているとも言えません。
 
でも、「聖書的にユーモアは必要です!」とも言い切れず、どっちつかずの状態が続いていました。
 
実際にこれまで、ユーモアに関して異なる見解を聞いてきました。
 
ある方々は、聖書をもとにユーモアは必要ないと言います。
 
また、ある方々は、聖書をもとにユーモアは有益だと言います。
 
どちらも僕よりも聖書に詳しい方が仰ったことだったので、僕としては余計どちらが正しいかわかりませんでした。
 
でも、ここにきて僕の中で結論が出ました。
 
その方々の見解は、どちらも正しいということです。
 
聖書はユーモアが善いとも悪いとも語っていないと思います。つまり、これはグレーゾーンの事柄です。なので、パウロが教えるように、その見解はそれぞれのクリスチャンに委ねられているのであり、それぞれが確信するところに立って生きることが求められていると思います。自分の確信、信仰に従って生きることが勧められており、その信仰に反することが罪となるのです。
 
僕としては、"品のある"ユーモアならば、それを状況に応じて使うことには賛成です。
 
でも、"品のない"ユーモアには反対です。このことに関しては、聖書が明確に否定していることと言えると思います。
 
「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。…」エペソ5:4
 
「…すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」(コロサイ3:8)
 
でも、僕もそうですが、クリスチャンでも時に、悪意が込められてたり、相手を貶めたりするような冗談を言ってしまったりすることがあると思います。
 
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聴く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)
 
おそらく人との対比で生きる時に、品のないユーモアを言ってしまうことが多いのだと思います。神との関係に生き、どんな相手にも、その人に恵みを与える言葉を語る者でありたいです。

パウロの教会に対する確信

「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」ロマ15:14

 

パウロはローマ教会が、ここで語っているような道徳的にも知的にも機能的にも優れた教会になることを確信していました。ここまで書いてきたように、パウロはローマ教会の欠点も知っていて、ユダヤ人と異邦人がさばきあったりしていることも知っているわけです。しかも、自分自身の目で直接ローマ教会を見たこともないのに、彼らが聖書的な立派な教会になれると堅く信じることができているのです。

 

これは僕には不思議に思えます。この地上にある地域教会は、罪人の集まりであり、みな欠点を抱えています。教会生活が長くなればなるほど、その現実を知っていくようになり、パウロの抱いていたような確信を持ちづらくなっていくのではないでしょうか。

 

パウロは人間の罪について誰よりもよく知っている人物です。しかし、同時に、その集まりである教会に対して誰よりも希望を抱いています。

 

おそらくそれは、パウロ自身が罪人のうちに働く神の力を深く体験していたからでしょう。この節の続きで、パウロは自分の宣教活動は、自分の力ではなく神の力によるものであり、自分は神の働きに参加させていただいたのだと話します。パウロは、人間の現実、限界を知りつつも、それを補って余りある神の恵みを知っていたのです。そして、自分自身の回心や変化を通して、また、宣教活動中に見た人々の回心や変化を見て、罪人に働く神の力がどれほどのものであるかも知っていたのでしょう。

 

今、僕はパウロのような確信を抱けていませんが、パウロが知っていた神の力を、これまでの人生でいくらかは体験させていただいています。今までの教会での人間的な体験や教会で受けた傷などに目を向けるのではなく、神の力、神の恵みに目を向けて、パウロの抱いた確信を自分のものとしていけるように願っています。

クリスチャンとしての成長

 

クリスチャンになった時、人生の大半をスポーツの世界で過ごしてきた僕は、どのようにクリスチャンとして成長するのかをあまり悩まずにこう考えました。

 

行いによって成長する、スポーツの世界ではトレーニングを行うことによってアスリートとして成長するように、ディボーションや聖書勉強などの教会プログラムに参加することでクリスチャンとして成長すると思っていました。

 

だから、クリスチャンとしての行い、毎日のディボーション、通読、祈り、週に一度のバイブルスタディや礼拝への参加、また、それ以外の教会のプログラムへの参加などを積極的に実行しようとしていました。そして、それができなければ罪悪感と劣等感を心に抱きました。

 

でも、聖書を学ぶに従って、そのような考えは間違ってるのだとわかりました。つまり、何かを実行することによって成長するのではない、のだと。

 

ローマ人への手紙122節の最後にはこうあります。「心の一新によって自分を変えなさい」。

 

これは、クリスチャンがどのように成長するのか、そのことを説明している一つの聖句でしょう。

 

この文章を文字通り読むと、僕のスポ根クリスチャン、頑張り信仰が励まされる気がします。「自分を変えるために心を一新し、がんばるんだ!」そんな感じです。

 

しかし、「心」という単語は、英語では「mind」と訳されています。つまり、感情ではなく、考え方を意味していると言えるでしょう。自分の感情を強く持つことによってではなく、自分の考え方、理解、思想、哲学を一新することによってクリスチャンとして成長するのです。

 

そして、「自分を変えなさい」は、原語では「変えられなさい」という受動態で書かれています。主体は自分ではなく、精霊です。自分が自分を変えるのではありません。神によって変えていただくのです。聖書を学び、この世と調子を合わせていた自分の考え方が聖書的なものに一新されていくときに、自然と自分は変えられていきます。

 

なので、クリスチャンの成長は、自分に色々なルールを課して、それらの行動によって成長していくというよりも、単純に聖書を学び、自分の考え方が変わっていくことによって自然と起こってくるのです。

 

だから聖書を勉強することはとても大切です。それがなければ心が一新されることがないからです。ただ、聖書勉強をすれば、成長するのでは必ずしもありません。どんな聖書勉強をするのかが大切です。聖書勉強に参加するだけで、聖書の真理を自分のものとし、考え方が間違ったものから真理に沿ったものに置き換わらないのであれば、成長は起こらないと言えるでしょう。

 

聖書勉強に参加していれば成長するだろうと、なんとなく思ってしまいますが、そうではありません。スポーツの練習でも、ただ闇雲に反復練習をこなしていても、新しい動きを意識して行わなければ、新しいスキルや習慣は身につきません。

 

聖書の真理を慕い求めるとき、神様は私たちが自分で変えられない人格、習慣、態度、言動を必ず変えてくださいます。そして、神の力によってそれが起こるがゆえに、神の栄光が顕わされるのです。

聖書に向かう気になれない...

一日の終わり、やっと自由な時間を得られ、ディボーションをしようと思うが、聖書に向かう気になれない。そんな時があります。

 

明確な理由があるときもあれば、なぜそのような気分になっているのかわからない時もあります。大抵、そんな時は気晴らしにユーチューブでサッカーの動画を見たり、Facebookやニュースを眺めたりして時間が過ぎていき、結局何もせずに終わってしまいます。。。

 

昨晩もなぜか聖書に向かう気になれませんでした。そこで、その時はこの現象についてしばらく静まって考えてみました。

 

そして、おそらくこのことは詩篇1篇から説明できると思いました。

 

詩篇1篇は「幸い」について書かれていますが、最初に「幸い」じゃない人についての説明があります。その説明は、幸いを失っていくプロセスについて述べられていると思います。

 

僕が聖書に向かえない時は、このプロセスをたどっているのだと思わされました。3つのプロセスがありますが、大抵、1番目まで行ってるか2番目まで行っています。

 

幸いを失い、心の平安が失われ、神との関係がギクシャクし、その心がみことばから離れていく..

 

プロセスの1番目は、肉的思考です。

 

例えば、嫌なことがあり、そのことが中々頭から離れません。そして、御霊が促す思いや考えではなく、肉の声に耳を傾け、肉的思考に陥り、主にある平安は失われ、心はざわざわし始めます。この時点では心に違和感を感じるでしょうが、まだ、意識的に御霊を排除してはいないので、神に立ち返りやすいと思います。

 

2番目は、肉の声に聞き従うことです。

 

肉的な思考をするだけでなく、実際に肉の声に聞き従うことを選びます。嫌なことがあったのを忘れるために、何かに没頭して忘れようとしたり、それを誰かのせいにしてその人に否定的な対応を取ったりします。この時点で、御霊がその心から排除されているため、聖書に向かう気が起こらなくなります。

 

そして、最後は、肉の支配です。

 

肉に自分が支配され、神を拒絶するようになり、思うことも考えることも話すことも行うことも、すべて神に敵対する方向性でなされます。僕も実際にこの段階まで陥ったことがありますが、それは本当に不幸でした。

 

罪人の自分は、このようなプロセスを辿ってしまう危険性が常にあると思います。もちろん、最後のステップまで至ることはそうないでしょうが、1番目と2番目を行ったり来たりすることは日常的にあると思います。

 

そんな罪に走りやすい私のために、キリストが十字架にかかってくださいました。

 

…(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」1ペテロ2:24

 

キリストは私がこの罪の歩みから離れ、義に生きるために死んでくださいました。

 

ここに私の勝利があります。彼の十字架のみわざが、私の生活から罪を消し去り、そこに義を生み出してくださいます。

 

私の罪を覆い、自身の義を被せてくださるキリストの贖いは、なんと恵みに満ちたものでしょうか。キリストにあって、私は罪に勝利し、義の道を歩むことができます。この方こそ、私の希望であり、救いです。

子育ての土台

『だれにでもできる! 6歳までの子育てレッスン(デビー・フィーリー著)』という本を読みました。

 

著者はクリスチャンで、二人の息子をホームスクーリングで育てた経験があり、その体験談を踏まえて、未就学児の子育てに関する意見を述べています。

 

書を読み進めるほど、適用的な話が多くなります。僕が印象に残ったのは、前半部分に書かれた「子育ての土台」に関する話でした。

 

子育ての前に大切にすべき三つのことが挙げられています。

 

⑴ 神を愛すること

⑵ あなたの結婚関係

⑶ あなたの哲学

 

子どもを真実な愛で愛するには、愛の神につながる必要があります。人間のうちには、神の愛がないからです。子どもとの関係を考える前に、神との関係を考えなくてはなりません。

 

「子どもは夫婦の愛のおこぼれで育つ」と聞いたことがあります。子どもは愛や優しさ、礼儀や尊敬を学ぶのは両親の関係を見て学びます。また、両親が麗しい愛の関係を築いている時に、子どもは最も安心します。もし夫婦関係が壊れているならば、いくら子どもが優れた学校教育を受けたとしても、本当の幸せと人格的な成熟を失うことになるでしょう。

 

子どもを育てるには正しい世界観が重要です。親の世界観は子どもに大きな影響を与えます。特に子育てする上で、教育観が明確に持つことが、子どもを育てていく上で鍵となるでしょう。一般的に子どもを学校教育で学ばさせると、教科教育が重んじられます。しかし、聖書的な教育観は一般的な教育観とは全く異なるでしょう。聖書から正しい教育観を持つ必要があります。

 

子育ての土台は、子どもを持つ前に築くことができます。子どもを得る前にこのような土台を築くことは、将来与えられる子どもを愛すること、より良い子育てにつながります。

 

また、子どもが与えられた後でも、できるだけ早くから、これらの土台を築き上げていくことに夫婦で取り組むことは大事なことです。麗しい夫婦関係を保ち、築くために、二人の時間を持つように努力したり、教育観についての学びやディスカッションを二人で行うことはとても良いことでしょう。

 

建物の土台がしっかりとしていれば、その建物は滅多なことでは崩れないように、子育ての土台がしっかりしていれば、その子どもも歩むべき道から逸れてしまうようなことは起きにくいでしょう。