人間関係に対する恐れ
人間は心の深いところで、麗しい人間関係、絆を求めていると思う。
自由に、親しく語り合える存在を人間は求めている。
クリスチャン用語で言えば「交わり」だ。
僕は、交わりに生きるのが下手である。これはずっと抱えている課題だ。
幾つかの理由があるが、主たるものは、人間関係に対する "恐れ"だと思う。
深い交わりを持ちたいという思いがある反面、相手にどう思われるか、相手と打ち解けられるかなど、心に恐れがあるため、積極的になれない。
"恐れ"は、健全な人生を歩むのを邪魔する。
恐れによって、論理的に考えて相応しい行動を取るのをやめてしまう。
ただ一言、「どこかで時間取れる?」と聞いてみればいいのに、相手がどう思うかなどを気にして、それをしない。
このまま恐れに支配される人生を歩むならば、多くの恵みを受け損ねるだろう。
聖書には度々「恐れるな」という神の励ましのメッセージが出てくる。
神に信頼する者にも、恐れる状況が多々ある。しかし、神はその恐れに打ち勝つことを求めておられ、そのために励ましを与えてくださる。
自分に甘く、人には厳しく
自分に甘く、他人に厳しくしてしまう。
意図的にそうしているわけではないのに、ついついそうなってしまう。
それが良くないことだとわかってるのに。
相手の失敗を見聞きしたとき、それを言葉に出さなくても、頭の中には批判的な考えが、心の中には否定的な思いが生まれる。とても自然に。
そうしようと意識しているわけではないのに。
そんな自分のことを考えるときに、思わされる。
やっぱり自分のうちには罪がある。
自分はとても善人とは言えない、罪深い、自己中心的な存在だ。
普段、自分はそんな悪い人間じゃないと思うが、本当はそうじゃない。
自分の本心があらわれ、本当の自分に向き合うならば、すぐに自分のうちには真実な愛がないことがわかる。心から相手を心配する、憐れみの思いがない。
その人の心境を察しようととするよりも、瞬時に相手をさばく思いに満たされる。
とても自然に、自分中心に生きてしまう自分には"救い"が必要だ。自分の力では変われることができないから。
罪深い自分を、根本から変えてくださる キリストにただただ感謝します。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。...私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」新約聖書ローマ人への手紙7章より
“幸せ”の追い求め方についての勘違い
失望からの回復
人間関係で何度も何度も同じような問題が起こると、人間の心は弱り果てていくと思う。
それは、問題が解決されることに希望を持てなくなってしまうからである。これまでと同じような問題が起こると、それまでの苦い思い出も思い起こされ、その繰り返される現実に心は打ちのめされそうになるだろう。だから、これからも同じような問題が起こるのだろうと、失望的状態に陥ってしまう。
人間関係の問題は、解決が難しい。
自分と相手の二人の努力があって解決できる。一人では解決に向かえない。
自分自身は問題に向き合おうとしても、相手と同じ思いを共有できない、いやむしろ相手にはその気がないのがわかると、怒りや落胆を覚える。そして失望する。
このような失望体験から、私はどのように回復することができるのだろうか?
そのような状態からの回復は自然には起こらないだろう。
私が自然に思い考えることは否定的なことばかりである。そして、そうすると時に否定的な感情は増幅していく。感情だけでなく、態度や言葉、行動までもが否定的な方向に流され、ますます解決が難しくなる。
失望は、心の病である。精神的な痛みがある。
そのため、その痛みを麻痺させるために、色々な自然と反応が起きる。私の場合、現実逃避し、嫌なことを忘れるために自分の趣味に没頭しようとしたり、睡眠を取ったりしようとする。
このようなことは、心の傷に一時的に覆いを被せているだけで、その時は痛みから解放されているかもしれないが、根本的な解決はないため、またすぐに心の痛みを覚え、そして、心を麻痺させる行動を取る。
そして、それが繰り返されると、本来は不自然な行為だったものが普通の行為となり、それが依存になり、不健全な形で自分自身を保とうとする。相手の言動に敏感にもなるため、些細なことでも心に否定的な影響を与える。
このような状態に陥ると、回復がより一層難しくなるだろう。部分的な病が、身体全体に、生活全体に悪影響を与えるようになると、解決する事柄も広く深くなる。
そのため、問題の解決は、焦ってはいけないが、できる限り早く取り組むのが良いのだろう。
ヘブル人への手紙12章から考える"教育の目的"
聖書的に考える、
教育とは何でしょうか?
教育の目的とは何でしょうか?
様々な聖書箇所から、このことについて考えられると思いますが、ヘブル人への手紙12章から考えてみました。
ヘブル人への手紙12章には、天の父がその子であるキリスト者をどのように教育するのかが書かれています。
「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
ここで「訓練」と訳されている言葉と「懲らしめ」と訳されている言葉は、名詞と動詞の違いはありますが、同じギリシャ語です。
この言葉は"パイディア"という言葉で、子どもを意味する「パイス」という言葉と関連し、子どもを"教育"するという意味で使われます。
ヘブル人への手紙12章では、"懲らしめ"という意味で使われていますが、この言葉は"懲らしめ"に関わらず、教育的なすべての要素を含む言葉です(教え、育成、養育、警告、矯正、懲罰など)。エペソ人への手紙6章4節では「教育」と訳され、2テモテ3:16では「訓練」と訳されています。
この言葉の主要な意味は”訓練”です。子どもを訓練して成長させるための一つの手段として"懲らしめ"があります。それは"矯正"のために行われるものです。ヘブル人への手紙12章では、特にその点について記されています。子どもに対する教育、または、訓練の一つの要素として、聖書は明確に懲らしめることを教えています。
それは、愛ゆえのものです。
ヘブル人への手紙12章では「主はその愛する者を懲らしめ」ると書かれています。
愛するから懲らしめるのです。
そして、その訓練、教育の目的は、子どもの霊的形成のためです。
「...霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは...訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
父なる神が、キリスト者を子として扱われ、懲らしめを与え、訓練されるのは、その子が聖くなるためです。聖化され、平安な義の実を結ばせ、キリストの御姿に作り上げられることが神の訓練の目的なのです。。
そう考えると、子どもの教育の目的は様々な考えがこの世にはあるでしょうが、クリスチャンとしてどのように子どもの教育の目的を持つのか、それがクリアになってきます。そして、そのゴールを見据えた上で、どのような手段、方法を取るのが良いのかも考えることができます。
聖書勉強の好みの変化
保育士的子育て
息子を日中1人で見るのが1週間に1回になりました。今までは週2回でしたが、1回減っただけで結構感覚的に違いますね。久しぶり感があります。
これまでもそうでしたが、親として聖書から学びながら、子育てに励みたいと願っています。
先日は息子を日中見ながら、親は"保育士"のようだと思いました。
⑴ 子どもを預けられている。
⑵ 報告責任がある。
この二つのことから、親は保育士のようだと思いました(もちろん保育士として働いたことはありませんが)。
子どもは"主の賜物"です。その主の賜物が私には委ねられています。そして、賜物を預かっている者として、私には大きな責任も委ねられていて、主に対する説明責任があります。やがて天において、私の子育てはキリストによって評価される時が来ます。
"保育士的子育て"、このような意識が芽生えると、より大切に子どもに接することができるようになると思います。また、誰も見ていなくても、どんなに小さなことでも、天での報いを期待して誠実に仕えることができますね。この世においては我が子を育てることには報酬はありませんが、天においてはあるのです。
子どもに対する一つ一つの態度や言葉、行動を神はご存知です。キリストの力によって子どもを愛し育て、報いを得られる子育てをしていくことができますように。