クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

人の感情を気にし過ぎてしまう

人の感情を気にし過ぎてしまうことが多い。

 

もしかしたら、日本人の特徴の一つかもしれない。

 

ただ、そのような時、何となく息苦しさを感じる。また、神様は相手の感情に左右され過ぎてしまうことを求めておられないように思う。

 

神様は自分自身の感情、自分自身が所有してる感情について、責任を持つように命じている。自分自身がどのように考え、思うべきか。

 

反対に、人の感情に対して責任を持つようには命じていないし、ましてやそれをおさめたり、コントロールしたりするようには命じていない。

 

人の感情を恐れ、自分の思いや考え、行動が支配されるならば、それは神の御心に叶ったことではないだろう。

 

もちろん、その人のためを思い、祝福を祈るべきであるが、その人によってキリストにある自分を失ってはいけない

 

そのことには、聖別の教理を適用できるかもしれない。多くの場合、相手の怒りや不安などのネガティブ(肉の)感情に影響を受けてしまうのだが、聖さを保つために、キリストにある自分を失わないために、相手と自分の感情の間にバウンダリーを設けるべきだろう。

 

自分の心が人への恐れで覆い尽くされてしまいそうな時にこそ、人を見るのではなく、主を見上げ、主の支配を求めよう。

何によって自分は動かされているのか

自分は何によって動かされているのか。

 

突き詰めて考えれば、自分は「人への恐れ」によって動かされていると言えると思う。

 

人から「◯◯と思われたくない」「◯◯と思われたい」と、ほぼ常にそのようなことを思い、考え、生きてる思う。

 

このような生き方は、クリスチャンとして、とても恥ずかしく、肉的な生き方だろう。

 

私は何を恐れるべきか?

 

私は主を恐れるべきである。

 

私は主を畏れるべきである。

 

私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。詩篇56:11

教育・訓練が実を結ぶことの喜び

今日、嬉しいニュースを見ました。

 

昔、サッカーを教えていた子(今は高校生)が、Jリーガー(プロサッカー選手)になることが決まったのです。

 

彼が幼少期の数年間、指導をしました。私はサッカーが好きで、その頃の夢はプロサッカー選手を育成することだったので、毎日懸命に指導していました。

 

そのことが実を結んだ(もちろん私が貢献できたのは僅かばかりですが)ことを知り、とても嬉しかったです。

 

教え子が成長し、自分の指導の成果を知ると、他では得られないような深い喜びを得ます。

 

去年、それ以前までずっと聖書勉強を導いていた子どもがバプテスマを受けた時も、同じような喜びに心が包まれました。

 

教育、訓練、指導が実を結ぶことの喜びは聖書にも見られることだと思います。

 

私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。3ヨハネ4

 

今回のことを通して、改めてこれからの人生も、教育や訓練、指導に力を注いでいきたいと思わされました。

 

キリスト者の一致

今日も家族三人で教会に行って来ました。

 

礼拝メッセージは、エペソ人への手紙4章1~16節。

 

テーマは「一致の保持(Maintain the Unity)」でした。

 

パウロは4章で召しに相応しい歩みをするように勧めています。

 

その具体的な中身は、キリスト者の一致です。

 

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。エペソ4:1-3

 

キリスト者の一致は、感情に依りません。

 

相手のことが好きか嫌いか、共通の趣味があるかどうかなどは、キリスト者の一致の本質的要素ではありません。

 

私たちは主にあって一つとされ、今も私たちは主を信じる信仰によって一つとされています。

 

実は、私には同じクリスチャンでも、今は距離を取っている人たちがいます。

 

今回のメッセージを聞きながら、その人たちのことを思わされました。

 

感情によらずに真理によって歩み、そのことを同じ真理・信仰を共有する神の家族に示すためにも、もう一度その人たちの集まりに参加してみようと考えています。

 

そして、キリスト者の一致・交わりは、一つの伝道方法であると聖書が語っているように、この世にはないクリスチャンの愛し合う交わりを通して、主の御名が褒め称えられることを願います。

 

お父さんがお母さんを愛するならば...

今日は、3組の友人家族と集まって、公園でピクニックをしてきました。私たちの住むオーストラリア・アデレードには、フェンスで囲まれた公園(自動ロック式のドア付き)が結構あるので、小さい子どもを持つファミリーも気軽に集まり、過ごすことができます。

 

その中のファミリーの一人のお母さんが体調を崩して来れなくなりました。私はそれを聞いて、てっきり来るはずだったお父さんとお子さん3人も来ない事になったのかと思ったら、お父さん一人で三人子どもを連れてやって来ました。

 

そして、午前中に集合し、お昼を食べてまた遊び、2時前ぐらいに解散となったのですが、そのお父さんは「妻を休ませたいから、次はどこに行こうか」と悩んでいました。

 

私はその姿を見て、とても感心しました。せっかくの休日に、妻と子どもたちのためにお弁当を準備し、子どもたちに出かける準備をさせて外出し、一人で小さい子ども三人を丸一日見ながら過ごす...。特に、妻のために自ら子どもたちを外で丸一日見てあげるという愛の行為には、色々と考えさせられるものがありました。

 

父親には、たくさんの役割・務めが与えられているが、その一つは、子どもたちに「妻を愛する姿を見せる」ことだと思います。子どもが体験する自分の家庭での生活は、その子の家族観、夫婦観、子育て観に大きな影響を与えます。そのため、聖書的な父親像や母親像、夫婦関係や親子関係を見たり、体験したりした子どもは、自分の将来の家庭のために、とても大きな財産を受けています。母を心から愛する父を持つ、子どもはとても幸せです。そのような父親は素晴らしい祝福を子ども(特に息子)に継承しています。

 

子どもが生まれると、どうしても子ども中心の生活になってしまいがちですが、聖書の教えに立ち、また、子どもに祝福を継承するために、意識的に妻を大切にしたいと思います。

子育てにおける闘い

子育ては、自分を王とすることとの闘いのような気がする。

 

子どもを見ていると、どうしても自分の思い通りに、プラン通りに事を進めたいと思う。もちろん、すべてそのようにはいかないが、出掛けようと思った時間に出掛けられない、自分が求めるように子どもが動いてくれない、せっかく作った料理を食べてくれない等、子どもを相手にすると、子どもは容易に私の思いや考え、要求や期待を”裏切る”。

 

そのような中でこそ、自分自身を親子関係における主(王)とするのか、キリストを主(王)とするのか、心の中での闘いがある。

 

子育てにおいて、私たちは、自分が誰を主として歩むのかを試されるだろう。自分のプラン通りに事が進まなくても、全てを治めておられる私の主がおられる。その主に信頼しつつ子育てに励む時に、私たちは不必要な焦り、ストレス、不安、怒りから解放されるのではないだろうか。

創造主を信じるとはどういうことか?

ここ最近、霊的なスランプに陥っています。

 

そんな中、今日は久しぶりに1人静まって聖書を読む時間を取ることができました。そして、創世記の1章1節を黙想しました。

 

何度も読み、頭では理解している創造の記事ですが、「自分は本当に創造主を信じる信仰に生きているのか?」と問われました。

 

"初めに、神が天と地を創造した"

 

聖書は、神がおられるという前提のもとに話が始まります。神がおられるかどうか、という議論はありません。それが聖書の前提です。

 

「唯一まことの絶対的な神がおられる」という前提のもとに、聖書という本は成り立っています。

 

私の人生はどうでしょうか? 本来、クリスチャンとしての私の生活は、その前提なくしては、信仰者としての道から外れてしまいます。

 

しかし、時に、私はその前提を失ってしまいます。「私には神がついている」「神が確かにおられる」という信仰が弱まってしまうのです。

 

自分ではどうすることもできない罪の問題や無力さを感じる現実の中で、クリスチャンであってもろ神に対する信頼が希薄になり、霊的な失望の中に留まってしまうことがあります。

 

しかし聖書は、最初の最初から「神が確かにおられる」という揺るがない真理を私たちに提示しています。

 

空が雲に覆われていても、確かに太陽がその先に存在するように、どんなに大きな問題が私たちの生活の中にあったとしても、神は確かに存在しておられます。

 

その神は創造主であり、無から有を、混沌から秩序を、暗闇に光を造ったお方です。

 

私たちの神はそのような偉大なお方であるがゆえに、希望を持てないような状況であったとしても、希望を持つことが確かにできるのです。