悔い改めの祈り 詩篇51篇 ⑴
詩篇51篇は、自分の罪の重さを理解したダビデの悔い改めの祈りです。
前書きにはこうあります。
ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとにきたときに。
ダビデは、預言者ナタンにバテ・シェバとの姦淫の罪を正され、自分の救いようのない罪深さを直視しました。
彼は自分が罪を犯したことを分かっていても、ナタンに指摘されるまで、その罪の重さをよく理解していなかったのです。
自分の罪深さを知ったダビデ。
彼は、自分の罪がどれほど醜いものであったとしても、神様はその罪から自分を救うことができる偉大なお方であるという確信を持っていました。
だから、彼は主に祈るのです。
自分自身がどれだけ酷い者であるかを理解させられたとしても、クリスチャンは失望することなく、主に対する確信と希望を持って前に進むことができます。
どのような罪からでも、へりくだって神に近づくなら、神はそれらを赦し、また、回復へと導いてくださいます。
私たちは、罪を犯すと、それを無視して忘れようとするか、何度も思い返して自分自身に失望します。
罪を犯した時、私たちはこの詩篇を読み直す必要があります。
自分自身の罪を直視しながらも、神の圧倒的な恵み、憐みの中で、平安と希望を見出すのです。
私たちは、自分自身の罪深さと同時に底無しの神のあわれみの深さに目を留め、新たな希望を持って再スタートします。
そして、その先には、罪赦された者だけが捧げられる礼拝と賛美の生活が待っているでしょう。
罪人を悔い改めに、また、主に対する礼拝に導くのがこの詩篇の役割と言えるでしょう。