イエスの招きに応える
マタイの福音書11章28~30節では、イエスが疲れ、重荷を負っている人に、休息と平安を与えてくださることが約束されています。イエスのくびきを負って歩んでいる人々は、その祝福に預かれるわけです。
しかし、今朝、その箇所を読んだ際、自分はどちらかと言うと”休息と平安を得ている人”ではなく、”疲れ、重荷を負っている人”だと感じました。
そのことについて静まって思い巡らしてみると、このところ自分が思い描く理想の自分を追いかけ、今の自分に満足できずにいたことに気づかされました。
そんな私をイエスは招いておられます。「わたしのところに来なさい」と。
この箇所の前のところで、イエスは不信仰な町々、人々を叱責しておられます。不信仰な町々が比較され、そのさばきが異なることが告げられています。コラジン、ベツサイダとツロ、シドン、また、カペナウムとソドムが比較され、より不信仰である前者の町々の方が重く裁かれると言われています。
神様の声に対して耳を閉ざし、不信仰になる人々もいます。しかし、それと同時に、神様のもとへ行き、その声に耳を傾ける人々もいます。自分はどちらでしょうか?
クリスチャンであっても、天における報いには違いがあります。御心に歩んだ者の方が報いは大きいのです。ただ、そのさばきの基準も違いがあります。より祝福を受けた者の方が厳しく裁かれるのです。
正直、自分自身はより祝福を受けていると思います。だから、より御心を行うことを求められているのでしょう。
しかし、それゆえに、自分自身の力で神のみこころを頑張って行おうとするのでは、よりイエスから離れていってしまいます。私は祝福を受け、自分自身の現実と神の偉大さを知らされてきたからこそ、自分自身の愚かさ、弱さを認め、イエスのもとに行くべきです。
今、私は自分自身の夢、理想、期待、願い、悩み、そういったものを捨てて、ただイエスのもとに行きます。主は私のすべてをご存じです。私の愚かさ、弱さも知りつつ、これからの歩みを導いてくださいます。そして、私の醜い心がご自身のそれに似るように励ましてくださいます。時にレッスンを与えてくださいます。私はどんな時も、心優しくへりくだっているイエスのもとに行きましょう。