クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

ヘブル人への手紙12章から考える"教育の目的"

聖書的に考える、

 

教育とは何でしょうか?

 

教育の目的とは何でしょうか?

 

様々な聖書箇所から、このことについて考えられると思いますが、ヘブル人への手紙12章から考えてみました。

 

ヘブル人への手紙12章には、天の父がその子であるキリスト者をどのように教育するのかが書かれています。

 

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」

 

ここで「訓練」と訳されている言葉と「懲らしめ」と訳されている言葉は、名詞と動詞の違いはありますが、同じギリシャ語です。

 

この言葉は"パイディア"という言葉で、子どもを意味する「パイス」という言葉と関連し、子どもを"教育"するという意味で使われます。

 

ヘブル人への手紙12章では、"懲らしめ"という意味で使われていますが、この言葉は"懲らしめ"に関わらず、教育的なすべての要素を含む言葉です(教え、育成、養育、警告、矯正、懲罰など)。エペソ人への手紙6章4節では「教育」と訳され、2テモテ3:16では「訓練」と訳されています。

 

この言葉の主要な意味は訓練”です。子どもを訓練して成長させるための一つの手段として"懲らしめ"があります。それは"矯正"のために行われるものです。ヘブル人への手紙12章では、特にその点について記されています。子どもに対する教育、または、訓練の一つの要素として、聖書は明確に懲らしめることを教えています。

 

それは、愛ゆえのものです。

 

ヘブル人への手紙12章では「主はその愛する者を懲らしめ」ると書かれています。

 

愛するから懲らしめるのです。

 

そして、その訓練、教育の目的は、子どもの霊的形成のためです。

 

「...霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは...訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

 

父なる神が、キリスト者を子として扱われ、懲らしめを与え、訓練されるのは、その子が聖くなるためです。聖化され、平安な義の実を結ばせ、キリストの御姿に作り上げられることが神の訓練の目的なのです。。

 

そう考えると、子どもの教育の目的は様々な考えがこの世にはあるでしょうが、クリスチャンとしてどのように子どもの教育の目的を持つのか、それがクリアになってきます。そして、そのゴールを見据えた上で、どのような手段、方法を取るのが良いのかも考えることができます。