クリスチャンとしての成長
クリスチャンになった時、人生の大半をスポーツの世界で過ごしてきた僕は、どのようにクリスチャンとして成長するのかをあまり悩まずにこう考えました。
“行いによって成長する”、スポーツの世界ではトレーニングを行うことによってアスリートとして成長するように、ディボーションや聖書勉強などの教会プログラムに参加することでクリスチャンとして成長すると思っていました。
だから、クリスチャンとしての行い、毎日のディボーション、通読、祈り、週に一度のバイブルスタディや礼拝への参加、また、それ以外の教会のプログラムへの参加などを積極的に実行しようとしていました。そして、それができなければ罪悪感と劣等感を心に抱きました。
でも、聖書を学ぶに従って、そのような考えは間違ってるのだとわかりました。つまり、何かを実行することによって成長するのではない、のだと。
ローマ人への手紙12章2節の最後にはこうあります。「心の一新によって自分を変えなさい」。
これは、クリスチャンがどのように成長するのか、そのことを説明している一つの聖句でしょう。
この文章を文字通り読むと、僕のスポ根クリスチャン、頑張り信仰が励まされる気がします。「自分を変えるために心を一新し、がんばるんだ!」そんな感じです。
しかし、「心」という単語は、英語では「mind」と訳されています。つまり、感情ではなく、考え方を意味していると言えるでしょう。自分の感情を強く持つことによってではなく、自分の考え方、理解、思想、哲学を一新することによってクリスチャンとして成長するのです。
そして、「自分を変えなさい」は、原語では「変えられなさい」という受動態で書かれています。主体は自分ではなく、精霊です。自分が自分を変えるのではありません。神によって変えていただくのです。聖書を学び、この世と調子を合わせていた自分の考え方が聖書的なものに一新されていくときに、自然と自分は変えられていきます。
なので、クリスチャンの成長は、自分に色々なルールを課して、それらの行動によって成長していくというよりも、単純に聖書を学び、自分の考え方が変わっていくことによって自然と起こってくるのです。
だから聖書を勉強することはとても大切です。それがなければ心が一新されることがないからです。ただ、聖書勉強をすれば、成長するのでは必ずしもありません。どんな聖書勉強をするのかが大切です。聖書勉強に参加するだけで、聖書の真理を自分のものとし、考え方が間違ったものから真理に沿ったものに置き換わらないのであれば、成長は起こらないと言えるでしょう。
聖書勉強に参加していれば成長するだろうと、なんとなく思ってしまいますが、そうではありません。スポーツの練習でも、ただ闇雲に反復練習をこなしていても、新しい動きを意識して行わなければ、新しいスキルや習慣は身につきません。
聖書の真理を慕い求めるとき、神様は私たちが自分で変えられない人格、習慣、態度、言動を必ず変えてくださいます。そして、神の力によってそれが起こるがゆえに、神の栄光が顕わされるのです。