クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

羊飼いの応答 ルカの福音書2章8~20節

 

2016年のクリスマスに考えさせられたことを書き記します。

 

エスさまが生まれた時代、「羊飼い」という身分、職業は人々から蔑まれていたそうです。それは、その職業柄、安息日などの律法(口伝律法を含む)を守ることができなかったからだと言われています。

 

そんな羊飼いに対して、イエス・キリストの誕生が最初に知らされました。なぜ羊飼いだったのでしょうか?人間的に考えて、王の王であり主の主であるキリストの誕生を最初に聞くのに相応しいのは、ユダヤ教の指導者たちや旧約聖書にとても詳しい律法学者たち、または身分の高い人たちだと思えないでしょうか。

 

しかしそうではなく、当時社会の最下層にいた「羊飼い」たちのもとに御使いが来て、救い主の誕生を知らせ、彼らが最初のクリスマスを目撃しました。聖書の中に、羊飼いが選ばれた理由は明確に書かれていません。もちろん偶然羊飼いに知らされたのではないことは確かです。神様のご計画の中で羊飼いが選ばれ、救い主の誕生の瞬間に招かれたのです。

 

この箇所の聖書をよく読むと、もちろん羊飼いたちが神様に招かれているのは間違いないのですが、御使いたちは羊飼いたちに「救い主のもとに行きなさい」とは告げていないことがわかります。

 

「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカの福音書2章8~14節)

 

つまり羊飼いたちは、この喜びの知らせを聞いた後に自発的に救い主のもとに行ったのです。その様子がそれ以降の箇所に記されています。

 

御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

 

羊飼いたちは、御使いに強制的にベツレヘムに連れて行かれたのではなく、互いに話し合って、見に行くことを決断して、その決断を行動に移しました。もし羊飼いたちが御使いからの良き知らせを聞いただけで、実際にキリストの誕生を見に行こうとしなかったのならば、彼らはいつも通りの生活を送るだけでした。彼らは救い主の誕生を見に行き、特別な恵みを体験しました。そしてその後、彼らは神をあがめ、賛美しながら帰って行ったと書かれています。

 

羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカの福音書2章20節)

 

彼らは、御使いが知らせたことがそのまま実現していたので、神をあがめ賛美しました。ここに、福音という良き知らせを聞き、それに応答した者の祝福を見て取ることができます。私たちがみことばに応答して生きる時「賛美しなくちゃいけない」「クリスチャンらしく生きないといけない」という世界から、「賛美せずにはいられない」「クリスチャンとして神をあがめる生活を送らずにいられない」という世界に入れられます。

 

以上のことをまとめると次のような原則を見出すことができるのではないでしょうか。

 

① みことばを聞く

     ↓

② 行動を伴う自発的な応答

     ↓

③ みことばの真実さの体験

     ↓

④ 神への心からの賛美

 

みことばを聞くだけでなく、それを行動に起こすときに、賛美の生活が待っています。

 

仮に感情が伴わなかったとしても(羊飼いたちも最初は恐れの感情がありました)聞いたみことばを行動に移し、みことばの真実さを体験し、神様を賛美する生活を送りたいものです。

 

僕自身の生活に当てはめてみたときに、みことばを聞いてはいる(知ってはいる)けれども、それを実際には行えていない一つのことが思い当たりました。今週、感情が伴わなくてもみことばを実践し、みことばの約束を体験し、先週以上に神への感謝と賛美を捧げる生活を送りたいです。