クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

自分中心 or 神中心

結婚してから4年ちょっとが経ちますが、以前と今では妻を何のために愛するのか、その動機が変わってきているように思います。
 
以前までは、"自分が愛してると認められるために"、または、"自分が妻を愛する夫でいたいがために"愛そうとしていたように思います。その時はちゃんと愛しているつもりでしたが、本当のところは自分の誇り、評価、満足、そういった自己中心的な動機から妻を一生懸命愛そうとしていたわけですね。
 
そして、トラブルが起こるたびに、「俺はこんなにいろんなことをしてるのに、何でそんなに不満に感じるんだ」と思っていました。振り返って考えると、とても恥ずかしいですし、申し訳なかったと思わされます。真実な愛で愛されず、"愛"のように見える利己的な動機であれこれされても、ストレスを感じるのは当然だったなぁ、と思わされます。
 
そして、夫婦関係におけるこのような愛の問題を持っていた私は、神との関係においても同じような問題を持っていた(持っている)ようにも思います。
 
妻には、"自分が"彼女を愛する夫でいたいがために妻を愛そうとし、神には、"自分が"神を愛するクリスチャンでいたいがために神を愛そうとする、と言うような問題です。
 
わりとよく"God centered"(もしくは Jesus centered)というフレーズを耳にしますが、以前まではこの言葉を聞いても、「どうしてそんな当たり前のことを強調するんだろう」と正直思っていました。しかし今となってはこう思います。これは当たり前のことだけれども、簡単なようで難しいことであるために強調されるのだろう、と。罪人である人間はどこまでも自分を中心に置きたいという欲望があるため、神中心に生きてるように思えても、見えても、本当はそうでないことがある。だから、God centeredが改めて問われるのだと思います。
 
自分の願い、自分の人生、自分のビジョン、自分の救い、自分の信仰生活、自分の教会、自分のミニストリー、自分の地域、自分の国、そういった事柄が自分の思考の中心にある。
 
または、自分が神の栄光をあらわし、自分の教会が成長し、自分のミニストリーが祝福され、自分の地域で伝道が前進することが自分の願いの中心である。
 
「神のため」「神を中心に」と言っている、僕の思考と願いの中心にあったのは、こういったものだったように思います。そして、その時は「神の栄光のために生きようとしてる」根底、背後にある自己中心性の問題に気づいていませんでした。
 
そのことは、その信仰が全世界に言い伝えられていたローマ教会の(異邦人)信者たちでさえも、神のご計画に基づいて自分たちを見ずに、自分たちを中心に信仰生活を送っていたのと同じようにも思えます。彼らが神のご計画における特別な役割を持ったイスラエルの救いを重要視していなかったように、僕もイスラエルの救いが大事であり、神がそれを願っていると知ってはいましたが、それでも自分と自分に関わることが祝福されることの方が大事だったと考えていたように思います。神の願い、神のご計画よりも自分の願い、計画を中心に歩んでいたところがかなりあったように思えます。だから、時に霊的なことに関わることで嫉妬心を持つことも多かったのでしょう。
 
この「自分中心に神中心に生きようとする」ことについては、まだ考えている最中なで、自分としてもうまく整理できていないように思います。でも、妻への愛が変えられてきているように、神への愛も真実なものへと変えられていきたいと心から思わされています。