クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

英語を話すことへの恐れ

英語圏に住んでいるので、英語を話す(話さなければいけない)機会が多くあります。

 

ただ僕は、英語がうまく話せないので、どうしても英語を話す場面になると物怖じしてしまいます。「伝わらなかったらどうしよう」「気まずくなったらどうしよう」「誤解を与えたらどうしよう」などと不安に思い、英語を話すことに恐れや恥ずかしさを覚えてしまいます。なので、職場でも教会でも、自分から話すことはあまりありません。

 

こうなるのは、結局は恐れに支配されているからです。英語が上手に話せないから積極的に話しかけれないのではなく、恐がっているから話せないのです。事実、今の英語力でも、多少かみ合わなかったとしても、もっともっとコミュニケーションを取れるはずです。でも、恐れがそれを邪魔してるのです。恐れは人を内向的にします。恐れは、招いたわけでないのに、いつの間にか心に侵入し、平安を奪い、心を不安で満たします。

 

「神が私たちに与えてくださったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」2テモテ1:7

 

パウロがテモテに臆病になることに注意し、御霊に支配されるように勧めたように、僕も恐れに縛られ、信仰に生きるのをやめないように注意しないといけないと感じています。なぜなら、僕は簡単に恐れに支配され、臆病になってしまうからです。本当は大した問題でないのに、恐れから本来取るべき(取った方が良い)行動を取らなくなってしまいます。そして、その状態がいつの間にか普通になってしまうのです。これは、肉の思いに生きることの結果であり、御霊に生きていないから起こることです。私は自分の中にある「臆病の霊」を取り扱っていただかなければなりません。そして、すでに神が私に「与えてくださった(過去形)」力と愛と慎みの霊に生きることを求めます。

 

聖書は「恐れるな」というメッセージで溢れています。

 

箴言には「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」と書いてあります。人を恐れるのは、主を信頼していないからです。私は人ではなく主を恐れることで、人に対する恐れから解放されます。主に対する恐れによって人に対する恐れに打ち勝つのです。主にどれだけ信頼できるかで、どれだけ人に対する恐れに打ち勝てるかは決まるでしょう。

 

僕が覚えなければいけないのは、どんな問題よりも神は偉大だということ。どんな人間よりも神は恐れられるべき方であるということ。

 

人を恐れるのか、主を恐れるのかで、日々の様々な選択は変わってくるがゆえに、両者の辿る道は全く異なるものとなるでしょう。人を恐れて生きる人生と主に信頼して生きる人生は全く違うものになります。前者には後悔が、後者には神への賛美と感謝が満ちるでしょう。

 

「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。」箴言19:23

 

私たちは主を恐れる時に、本当のいのち、満足を体験します。

 

「力強い信頼は主を畏れることにあり、子たちの避け所となる。」箴言14:26

 

人を恐れ、心が騒ぐことが多くあります。でも、主を恐れ、主に信頼する者には、安全な避けどころがあります。

 

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。」詩篇56:11