クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

聖書を勉強するのは良いこと?

最近、クリスチャンにとって聖書を勉強することは良いことかどうか考えていました。またまた長い投稿になるので、興味のある方は読んでみてください。

 

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僕は以前までは"無条件に"良いことだと思っていました。通常、教会では聖書勉強”は良いこととして強調、推奨されますし、周りにいるクリスチャンからも聖書勉強は良いことだというメッセージを受け取っていたので、自動的にそう考えたのだと思います。 

 

でも、徐々に無条件に良いとは言えないかもしれないと思うようになりました。ただ、そのことをきちんと整理して考えることはありませんでした。

 

ここ数日、あることがきっかけとなり、改めてそのことについて考えさせられました。そのきっかけとは、最近、あるクリスチャンの聖書に向かう態度と自分のそれとがどこか違い、自分の聖書に向かう態度はどこか歪んでいると感じたことです。その方の聖書に対する態度には、神に対する礼拝、主にある喜びが溢れていて、まっすぐ天に向かっているように見えるのですが、自分の聖書に向かう態度はそうではない、何かがおかしいのかもしれないと思いました。

 

これまでの自分自身の聖書に対する態度は、正しいものだったのか、神に喜ばれるものだったのか...。

 

これまでの聖書を学ぶ動機について振り返って考えてみると、それは主の御前に良いと言えるようなものではなかったように思えます。もちろん、神様をもっと知りたい、クリスチャンとして成長して神のために仕えたいという純粋な動機もありながら、神の栄光ではなく自分の栄光という醜い動機が隠れていたように思うからです。「知識を得、自分が満足したい」「聖書をよく知って、周りから賢いと思われたい」「聖書勉強の導きで失敗したくないから」「ディボーションをちゃんとクリスチャンライフを歩んでると感じたい」「聖書勉強に参加し、周りから認められたい」など、考えてみればたくさんの自分勝手な動機がありました。

 

神はうわべではなく心を見られる方であり、私の心を問われます。善悪の知識の木を取って食べたエバのように、「もっと満足したい」「もっと賢くなりたい」「もっと凄い者になりたい」という誘惑に負け、自己中心的な動機を持って、聖書を勉強していたとも言えると思います。それでも自分では良いこと、正しいことをしていると思っていました。なんと愚かな者でしょうか。

 

聖書を勉強することは無条件に良いことにはならない、時にそれは神に喜ばれるのではなく、神を悲しませることにもなると思います。さパリサイ人や律法学者のような偽善的な霊的行いは、神が憎まれる行為にもなると思わされています。

 

今、自分の聖書を学ぶ態度を改めている最中です。このことを考えるきっかけを与えてくれた、あのクリスチャンのように、聖書勉強をしている時の自分の心が、自分勝手な思いから解放され、神をたたえ、喜ぶ思いで満たされますように!