クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

人から嫌われたくない

最近、人と話している時に違和感を覚える時がある。それは、本来の自分でない自分を演じてしまうというものである。その場の状況、目の前の相手に合わせて、自分の生きる一貫性のない自分。昔からそんな自分が嫌だった。

 

昔から、いい人でいたかった。人から嫌われず、人に好かれる人になろうとしてきた。

 

そしてその理想が、自分を縛ってきた(いる)。人から好かれるコツは、自分の言動を相手に合わせるか、相手を自分の仲間にするかのどちらだと思うが、私は前者を選んできた。

 

だから、相手が気分を害するかもしれないと気にしすぎるあまり、自分の意見を言うのも苦手である。

 

自分の信念を貫いて生きるのではなく、相手の感情を害さず、その場の雰囲気を壊さずに生きる。どうしてそのような生き方になったのだろうか。気づいたらそういう生き方になっていたように思う。振り返ってみれば小学校低学年(もしかしたら幼稚園)の頃から孤立しないよう、仲間外れにされないように生きてたと思う。

 

昔からそんな自分が嫌で、変わりたいと願っていたが、簡単には変われなかった。でも、クリスチャンになってから、良くはなってきた。良くはなっているとはいうものの、それでも依然としてそのような体質が色濃く残っているように感じる。

 

周りにいる人の感情をよく気にしてしまう。相手の表情や態度からそれを自然と読み取ろうとしてしまう。時々、そんな自分にストレスを感じる。神に従って生きたいと願いつつ、いつの間にか相手に嫌われないことがその場における最も大事なことになってしまっている。

 

 

そんな自分のことを考えてふと思う。どうして、そんなに人に気に入られたいのだろう? いったい人に好かれる必要はどこまであるのだろうか? 聖書的に考えるとどうなのだろうか?

 

聖書では、人から愛されなさいとは命じられていない。人から嫌われないようにしなさいとも、人に好かれるようにしなさいとも命じられていない。

 

むしろ、聖書は人を愛するように命じている。そして、神に従って生きる者は人から憎まれることがあり、信仰ゆえに苦難を経験すると語っている。

 

自分の心の中には確かに「聖書に従って人を愛していきたい」という思いがあるのだが、それと同時に「人から嫌われないようにいきたい」という強い思いもある。この相反する二つの思いは両立できない。どちらかを捨てなければいけない。それは自分の選択である。

 

嫌われたくないという思いは、自己保身から生まれるものである。聖書は自分を守ろうとするのではなく、自分を捨てなさいと語る。おそらく、私は自分を捨てきれないから、社会で生きる時に、そこまでクリスチャンゆえの困難を経験していないのだと思う。

 

嫌われなくたいという思いは、いい人を演じさせ、本来の自分を失わせる。そして、真実な人間関係を築くことを邪魔する。だから、私には、クリスチャンの友とでさえも本当の友人関係を持つ事が難しい。

 

幼い頃から培われたこのような習性は、そう簡単には変わらないだろうが、御霊と御言葉の働くことによってきっと変えられていく。

 

箴言29:25 人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。