聖化を求める態度
職場への道すがら、ふと来年でクリスチャンになってから10年が経つことに気づいた。そして、気が早いが、これまでの歩みを振り返ってみた。
救われた頃と今とで何がどう違うか。
しばらく考えながら思いついたことは、"聖化(霊的成長)を求める態度"が変わったということ。
救われてから大半の時間は、”クリスチャンらしく”生きようと頑張ってたように思う。ちゃんと聖書を読んで、祈って、教会で奉仕をして、人に優しくして…。
罪を犯さないように気をつけ、自分の霊的成長のためにルールや重荷を課して生き、そんな自分に一喜一憂する。(もちろん今でもそういうところはあるが大分減ったと、自分では思う)
そんな自分が、自分なりにみことばを学び、そのみことばに生きることを求め、様々な体験やレッスンが与えられることを通して、徐々に変わってきているように感じる。
何が変わったのだろう。
おそらく"アイデンティティ"と"フォーカス"が変わってきているのだと思う。
"自分の行い"に基づいて自分を見ることから、"キリストのみわざ"に基づいて自分を見るように。聖書が読めていてもいなくても、自分がイケてるorダメだとは思わなくなった。
自分の栄光からキリストの栄光へ。自分自身が注目を集めることから、キリストの御名があがめられることへ。
自分の行いによってではなく、御霊の働きによって変わらせていただくのが、聖化。
クリスチャンになりたての頃、スポーツマンとして生きてきた自分が思い描いた聖化のプロセスとは全く異なる。けれども、だからこそ、神の栄光があらわされる。