クリスチャンパパ物語

How sweet are your words to my taste, sweeter than honey to my mouth! Psalms119:103

家族みんなで動物園へ

今日は午後から家族三人で動物園へ。

 

息子のお昼寝が終わったのが二時半頃。

 

そんな時間からでも、動物園で充実したファミリータイムを過ごせました。

 

僕らは本当にアデレードでのんびり暮らせています。

 

最近はつくづく、オーストラリアに来て良かったなぁと日々思っています。

 

ゆっくり流れる日常の中で、主をほめたたえ、夫婦で恵みを数え、そして、息子に主の素晴らしさを感じて欲しいと願いつつ過ごしています。

 

そんな僕らには動物園は最高の場所です。

 

将来、教会学校などで神の創造について学ぶのもとても良いと思いますが、日常の中で、家庭で、子どもが創造のみわざを知り、驚きながら育っていく方がもっと大事だと思います。

 

毎日の何気ない日々の中に、主をほめたたえる要素は満載です。それらを見逃さずに、子どもと共有しながら歩んでいきたいです。

  

だから、1日1日を、息子と過ごす"今この時"を大事になきゃね。

 

 

 

耳だけを働かせる

最近学んだこと。

 

何もしないことが愛することになる

 

ただ妻の隣に座って話を聞くことが、愛することになる。

 

知らなかったわけじゃありませんが、改めて気づかされました。

 

行動主義の僕は、何か目に見える行動を取ることこそが愛することだと自然に考えてしまいます。

 

家事を手伝う

美味しいものを買ってくる

花を買う

手紙を書く

etc

 

でも、そういったことをするよりも、ただ妻の側に座って、じっと目を見つめて、耳を傾けるだけで愛することになる。

 

何と安い愛なんだ...。笑

イエスの招きに応える

マタイの福音書1128~30節では、イエスが疲れ、重荷を負っている人に、休息と平安を与えてくださることが約束されています。イエスのくびきを負って歩んでいる人々は、その祝福に預かれるわけです。

 

しかし、今朝、その箇所を読んだ際、自分はどちらかと言うと休息と平安を得ている人ではなく、疲れ、重荷を負っている人だと感じました。

 

そのことについて静まって思い巡らしてみると、このところ自分が思い描く理想の自分を追いかけ、今の自分に満足できずにいたことに気づかされました。

 

そんな私をイエスは招いておられます。「わたしのところに来なさい」と。

 

この箇所の前のところで、イエスは不信仰な町々、人々を叱責しておられます。不信仰な町々が比較され、そのさばきが異なることが告げられています。コラジン、ベツサイダとツロ、シドン、また、カペナウムとソドムが比較され、より不信仰である前者の町々の方が重く裁かれると言われています。

 

神様の声に対して耳を閉ざし、不信仰になる人々もいます。しかし、それと同時に、神様のもとへ行き、その声に耳を傾ける人々もいます。自分はどちらでしょうか?

 

クリスチャンであっても、天における報いには違いがあります。御心に歩んだ者の方が報いは大きいのです。ただ、そのさばきの基準も違いがあります。より祝福を受けた者の方が厳しく裁かれるのです。

 

正直、自分自身はより祝福を受けていると思います。だから、より御心を行うことを求められているのでしょう。

 

しかし、それゆえに、自分自身の力で神のみこころを頑張って行おうとするのでは、よりイエスから離れていってしまいます。私は祝福を受け、自分自身の現実と神の偉大さを知らされてきたからこそ、自分自身の愚かさ、弱さを認め、イエスのもとに行くべきです。

 

今、私は自分自身の夢、理想、期待、願い、悩み、そういったものを捨てて、ただイエスのもとに行きます。主は私のすべてをご存じです。私の愚かさ、弱さも知りつつ、これからの歩みを導いてくださいます。そして、私の醜い心がご自身のそれに似るように励ましてくださいます。時にレッスンを与えてくださいます。私はどんな時も、心優しくへりくだっているイエスのもとに行きましょう。

 

忘れる力

否定的な思いが募ると、いろいろおかしくなる。

 

だから、忘れる力が必要だ。

 

他者に対して、否定的な感情を抱く。

 

一度、嫌いになると、一緒にいればなおさら、一緒にいなくても、自然に嫌いな理由を考えてしまうことがある。

 

そうなると、相手との関係が破壊されるどころか、自分の心はネガティブなエネルギーで包まれ、それによって生活もうまく回らなくなる。

 

はっきり言って、何も良いことはないだろう。

 

聖書の神は、ご自身が救い出された者の罪と不法とを思い出すことはされない。

 

すべての罪はキリストの十字架によって処理され、キリストの義が信者に転嫁されることによって、神の目には聖い存在として映っている。

 

同じように僕も、すでに処理された罪を思い出して生きるのではなく、神のみわざ、恵みを思い出して生きるべきだ。

 

その時に、相手との関係も、自分の心と生活も良いように変わっていくだろう。

 

気分が落ちてしまう時

気分が落ちてしまう時に、どのように回復するか。

 

最も効果的で、最も優先すべきことは、神に頼ることだろう。

 

その問題を五分でも良いので手放し、

 

一人部屋で祈ったり、賛美したり、みことばを聞く時間を持つこと。

 

もちろん、信仰の友に頼ることも良い。

 

しかし、信仰の友はいつでも、また、究極的に頼ることはできない存在である。

 

最も優先すべきは、神に頼ることだ。

好き嫌いに基づかない愛

キリストの愛は好き嫌いに基づいていない。

 

福音書を見る限り、イエスが自身の好みによって相手を愛したり、愛さなかったりしたことは一度もない。

 

キリストの愛は、相手のことが好きか嫌いかに関係しない。

 

でも、人間の愛は違う。

 

人間の愛は、好き嫌いに基づく場合が多い。

 

相手のことが嫌いならば、その感情に基づいて接してしまう。

 

もしキリストがそのように生きられたのならば、キリストは十字架にはつかれなかった。

 

誰も救われなかった。

 

相手が自分に対してどのように接するかは、自分が愛するかどうかに関係ない。

 

レスポンスとしての良い行いではなく、

主体的に良い行いをすることを選ぶ。

 

それがキリストの生き方。

 

"自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いことがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。"ルカ6:33

 

 

子どもとの時間

子どもと一緒に過ごす時間に、他のことを考えたりして、集中できないことがよくある。

 

仕事や趣味、家事のことなどを考え、二人の時間を大切にできない。

 

おそらく、子どもとの時間を大切にしようとしながらも、どこかでその時間の価値、尊さを低く見ているのだろう。

 

だから、子どもと遊びながらも、頭の中では目の前の子どもよりも自分のことを優先する時がある。

 

そのような自己愛に立つがゆえに、子どもを愛そうとしながらも心から愛せない。

 

子どもとの時間を大切にしたいと思いながらも、心から子どもとの時間を楽しめない。

 

マルコの福音書10章には、主イエスのもとに子どもたちが連れて来られる場面がある。

 

それを見て、弟子たちは子どもたちを連れて来た人々を叱った。しかし、主イエスは弟子たちのそのような対応に憤られた。

 

主イエスと弟子たちの子ども観が異なることがわかる。弟子たちは子どもを軽く見たが、主イエスは子どもを大切な存在として見た。忙しい中であっても、自分のことは脇に置いて、子どもたちを積極的に迎え入れ、彼らと一緒に過ごし、彼らを愛し、祝福するのが主イエスである。

 

主イエスのように、忙しい日常の中にあっても、自分のことよりも子どものことを優先し、子どもたちを積極的に自分のもとに迎え入れ、愛を表現し、祝福する者となりたい。

 

特に子どもを祝福し、彼のための祈りを積み上げていき、誰よりも彼のことを愛している主に彼が出会うことを祈り求めていきたい。