子どもとの時間
子どもと一緒に過ごす時間に、他のことを考えたりして、集中できないことがよくある。
仕事や趣味、家事のことなどを考え、二人の時間を大切にできない。
おそらく、子どもとの時間を大切にしようとしながらも、どこかでその時間の価値、尊さを低く見ているのだろう。
だから、子どもと遊びながらも、頭の中では目の前の子どもよりも自分のことを優先する時がある。
そのような自己愛に立つがゆえに、子どもを愛そうとしながらも心から愛せない。
子どもとの時間を大切にしたいと思いながらも、心から子どもとの時間を楽しめない。
マルコの福音書10章には、主イエスのもとに子どもたちが連れて来られる場面がある。
それを見て、弟子たちは子どもたちを連れて来た人々を叱った。しかし、主イエスは弟子たちのそのような対応に憤られた。
主イエスと弟子たちの子ども観が異なることがわかる。弟子たちは子どもを軽く見たが、主イエスは子どもを大切な存在として見た。忙しい中であっても、自分のことは脇に置いて、子どもたちを積極的に迎え入れ、彼らと一緒に過ごし、彼らを愛し、祝福するのが主イエスである。
主イエスのように、忙しい日常の中にあっても、自分のことよりも子どものことを優先し、子どもたちを積極的に自分のもとに迎え入れ、愛を表現し、祝福する者となりたい。
特に子どもを祝福し、彼のための祈りを積み上げていき、誰よりも彼のことを愛している主に彼が出会うことを祈り求めていきたい。
目指すべきはキリストの人格
子どもが大きくなったら、
「将来、何をしたい?」
よりも
「将来、どんな人になりたい?」
と問いたい。
"行動"よりも"人格"が大事がゆえに、子どもにも人格的なことを問うようにしたい。もちろんすぐにはうまく答えられないだろうが、大切な価値観を共有していくことができるように思う。
特に男性は、自分の行動に注意が向きがちだと思う。プライドが働くせいだろう。内面的にどのように成長するのかよりも、人目に付く行動の変化にフォーカスを向けたがるでのはないだろうか。
クリスチャンとして、明確に聖書から命じられていることは、御霊の実を実らせ、キリストの人格を実らせることである。キリストの人格へと変えられていくことを祈り求めながら、今日の1日も歩みたい。
西野采配に見るイエス・キリスト
誘惑との闘い
人間には誘惑との闘いがあります。
僕は最近、周りの人に対する接し方やフリーな時間の使い方において、誘惑との闘いがあります。
自分の欲求を満たすことを優先するのか、なすべきことなすのか。
これは、僕の昔のからの闘いであると同時に、罪人である人間の避けられな闘いです。
そして、この闘いは、人間の内側で起こっていると思います。内側にあるものが外に出るからです。行動に現れている時には、すでに頭で決断しています。
なので、"何をするのかしないのか"ということよりも、誘惑に対して"どのような思考をするべきなのか"を考えるべきだと思います。
それなしに生きていると、感覚的にで物事を判断して時間を過ごしてしまい、簡単に誘惑に陥ってしまうでしょう。
イエスさまのサタンの誘惑に対処する方法も同じでした。イエスさまはサタンの言葉に、みことばをもって返答されました。誘惑にあった時に、みことばに基づいて考え、行動したのです。これが正しい誘惑に対処する方法でしょう。
自分の欲求のままに考え、行うのではなく、立ち止まってみことばに基づいて考え、行動する必要があります。
誘惑に陥る時に、大抵の場合は"自分が何をしたいか"もしくは"何をしなくないか"を考えるでしょう。しかし、みことばに基づくならば、"みことばは何と命じているか"、"神様は何を喜ばれるのか"を考えます。そして、そのことを思い巡らす中で、みことばを通して御霊が働き、誘惑に勝利することができるのでしょう。
大阪での地震
大阪での地震、驚きました。
被害に遭われた方、また、そのご家族のために祈っています。
震度6弱の地震と聞いて、真っ先に東日本大震災を思い出しました。
自分が体験したあの揺れ(に似た揺れ)を大阪の方々が体験されたと思うと、人事とは思えません。
震災の日以降、1,2週間は異常な精神状態にありました。本来の自分ではない自分がそこにはいたように思います。
ある程度の時間と、聖書のみことばを通して、徐々に心が回復していきました。特に、スマトラ沖地震を経験された牧師が書いた『津波の後で』という小冊子が、僕にはとても助けになりました。自身の体験をもとに書かれたものだからこそ、大きな慰めを与えてくれます。
被害に遭われた方のことを覚え祈りつつ
※デイリーブレッドのサイトでPDFをダウンロードできるみたいなので、リンクを貼っておきます。
私たちの背後で生きて働かれる神
様々なことがあり、最近はパッとしない日々を歩んでいる。
普段よりも、神様との距離を感じる。
そんなこともあり、ブログのアップも滞っていた。
問題が起こると、自分の心や不安定になる。そして、それが嫌になる。
さらに、自分の感情を保つのに時間を取られ、生産的な時間の使い方ができなくなる。
そして、さらに嫌になる。
問題によって、心の奥底から生まれる平安や喜びが失われる。
しかし、実際には、試練は誘惑に陥る機会になるだけでなく、人格が精錬される機会ともなる。自分の受け止め方と対処の仕方によって、プラスにもマイナスにもなるのである。
問題が起こると、自分の運命を呪う。
"なぜ?"という否定的な思いに包まれる。
しかし、それでも自分のうちには確かな思いがある。
"神は今も生きて働いてくださっている"
"御霊はこんな私のうちに住んでくださっている"
エステル記には、神の御名が一度も出てこない。
また、エステルやモルデカイの祈りに対する明確な言及がない。
しかし、それでもエステル記を通して、神が確かに生きて働かれ、その歴史に介入されていることがわかる。
神の摂理の御手が随所にあられている。
サタンや悪霊の力がどんなに私たちのそれを超えていても、人間の罪を自分の力では克服できなかったとしても、神はそれらに打ち勝つことができる。だから、主にあって希望を抱くことが、どんな時でもできる。
すべては神の摂理のもとにある。
神の支配の外にあることはない。
私は、主にあって希望を持ち続ける。
私は、主にあって希望を持ち続ける。
私は、主にあって希望を持ち続ける。
俺って大丈夫かな?と思うとき
たまに、聖書を信じる自分のことを「俺って大丈夫かな?」と思うことがあります。
特に、将来必ず起こると聖書預言を信じている自分に、ふと「こんなことよく信じられるな」と思うことがあります。
自分の信仰のことを考えると、たまに疑問に思うことがあるんです。
大丈夫かな?と。
こんなとき、自分の思いや感覚、また、世の常識に自分の考えを沿わせてはいけません。
真理は、自分の感情や感覚、また、世の常識ではないからです。
真理は、自分の思いによって決まりません。また、多数決によっても決まりません。
単純にいえば、自分がどう思うかはそのことが真理かどうかであることには関係ないのです。また、他の人がどう考えているか、また、何と言うかも関係ないのです。
そのことを覚えなければなりません。
そうでないと、自分の信仰は揺らいでしまうでしょう。
私は、自分の思いや他者の意見を絶対化するのではなく、聖書の真理を絶対化します。
そして、真理に基づいた考えに生きることを選びます。