霊的生活の敵: 忙しさ
我が家では朝急ぐということがほとんどない。普段は当たり前だが、今朝は慌ただしい朝となっため、非常にありがたく感じた。
先進国に生きる多くの人が、慌ただしく生きているだろう。人々は、忙しく生きなければ成り立たない、急いで当たり前の社会の中に置かれている。忙しさはもはや、一つの美徳とさえなっていると言えるかもしれない。
クリスチャンで哲学者であるDallas Willardは、" Hurry is the great enemy of the spiritual life in our day. You must ruthlessly eliminate hurry from your life."と語り、急ぐことの危険性を指摘している。
また、C.S.ルイスの霊的な指導者であったWalter Adamsは " To walk with Jesus is to walk with slow, unhurried pace. Hurry is the death of prayer and only impedes and spoils our work. It never advances it. " と語り、急がないことの重要性を伝えた。
"忙"しいという漢字が表すとおり、忙しさによって人は心を失う。クリスチャンであれば、主の臨在や祈り、主にある愛や平安、喜びを失う。身体的な健康を害したり、霊的な栄養失調にも陥る可能性が非常に高いのではないだろうか。
悪魔は、日々当たり前に人々(クリスチャン)が忙しくすることによって、良い心を奪っている。多くの人が疑うこともない中で...。
イエスさまは公生涯において、非常に多くのことをなされたが、忙しさに心を失うことはなかった。また、忙しさを良しとせず、忙しさと闘われたとも言えるかもしれない。
安息日を守り、一人で静かなところに出て行って祈られた。不安や貪欲さから働くということもなく、心を守られながら、ミニストリーを行われた。その姿に私たちはたくさんの学ぶことがあるだろう。
もし忙しい生活を送っていて、家族と過ごすのは朝と夜だけ。そんな生活を送っていながら、その貴重な時間さえも忙しく過ごしたり、忙しさからエネルギーのない(人を深く愛する余裕がない)状態で、愛する家族と過ごすなら、なんと悲しいことだろう。
私たちは神と隣人を愛するように召されている。そのために少しでもできることがあるならば、その一歩を踏み出したい。
学習の本質を身につける
今日、実家から”こどもちゃれんじ”が届いた。
早速、息子は「はやくやりたい」と、大好きなママの作ったプリンは横に置いて、冊子のページをめくる。
彼は勉強を楽しんでいる。
僕自身は勉強は苦だった。
テストで良い点を取る達成感は味わっても、学ぶことの楽しさをあまり得ることができなかった。
彼には、楽しく、主体的に、積極的に学んで欲しい。
そのような態度こそ、学習の本質だと思う。
まだ幼い彼が、何を学ぶかも大事だが、どのように学ぶかはもっと大切なように思う。
"好きこそ物の上手なれ"
長い目で見て、今、学習の本質を身につけさせながら学ぶことが、最終的に彼の人生を豊かにすると信じている。
我が子が「自分の罪がよく分からない」のはなぜ?
昨日も息子に謝り、赦しを求めた。
不完全な親、間違ったこと、すべきでないことをしてしまう。
だから、きちんと謝らなくてはいけない。
親だから、子どもにだから、謝らなくていいとはならない。
親が自分の罪に対して、どのような見方や態度を取っているかは、子どものそれに大きく影響するだろう。
親の罪理解は子どもの罪理解を育てる、と思う。
クリスチャンホームで育つ子どもの中に「自分の罪がよく分からない」と言う子どもがたくさんいる。
しかし本来、クリスチャンホームの子供には、自分の罪がよく分かる環境が用意されているべきだろう。
なぜなら、そこでは神の聖さが教えられ、人間の罪の醜さ、酷さが教えられ、また、親がどのように自分の罪を扱い、神と家族にその赦しを求めるかが示されるから。
親は自分の罪理解が増していけばいくほど、罪に対して敏感になり、わずかな罪に赦しを求めるようになる。そして、子どもはますます罪とは何か、聖さとは何かを学んでいくだろう。
もしかしたら、クリスチャンホームの子どもが自分の罪がよく分からないとなるケースの問題の本質は、親の罪理解の欠如にあるかもしれない。
携挙はあるのか?
クリスチャンになってからずっと、私は「携挙」を信じてきました。
携挙とは、教会時代に救われたクリスチャンたちがみな、生きてる者も死んだ者も、イエス・キリストが天から戻って来られるときに、空中に引き上げられて、主に会い、その後、天に昇るというものです。
携挙のことを言ってるとされる代表的な聖書箇所は、第一テサロニケ人への手紙4章の後半です。
ここ最近ずっと、バイブルスタディで黙示録を学び、終末論を考えてきました。クリスチャンになってからずっと学んできた立場は「千年王国前患難期前携挙説」です。
千年にわたるキリストが統治される王国の前に、七年間の患難時代にやってくるが、その前にクリスチャンは携挙されるというものです。
他の終末論の立場に触れてきたことはほとんどありましたが、ずっとその立場が正しいのだと考えてきました。
他の立場のことも調べるようになった今でも、基本的にはその立場が正しいと考えています。
しかし、携挙に関しては、違う考え方を持つようになりました。
今では携挙は(おそらく)ないだろうと考えています。
私の周りにいたほとんどすべての牧師が携挙を信じていたので、携挙に関する情報、聖書的な根拠(だと考えられるもの)にはずっと触れてきました。
ただ、私が尊敬するジョン・パイパー師が携挙を信じてないと分かり、改めて携挙のことを考えるようになりました。
彼の説明を読み、他の終末論の考えも調べ、また、携挙の根拠とされる聖書箇所を丁寧に読み理解していった結果、携挙はないだろうと私も考えるようになりました。
クリスチャンになってからずっと信じてきたことであり、一つの大きな希望でもあったので、とてもショックでした。
おそらく、クリスチャンになってからここまで大きな自分の教理的な変化を体験したことはないでしょう。
第一テサロニケの4章からも、ヨハネの福音書14章の前半も、第一コリント15章も、ヨハネの黙示録3章からも、はっきりと「携挙」があると信じることはできません。
マタイの福音書24章の前半と第二テサロニケ2章の前半をよく理解するならば、イエスさまの頭の中にも、パウロの頭の中にも、「携挙」というものは存在しなかった野田ろうと考えることができます。
そして「携挙」がないと考えるようになって、色々な聖書箇所の意味がすっきり分かるようになりました。または、それぞれの箇所がつながるようになりました。無理やり、複雑な解釈をしなくても、単純に理解できるようになりました。
携挙がない、教会が患難時代を通過するだろうというのは、ショックなことでもありますが、聖書の真理は私たちを自由にします。
今は、心に不思議な平安と、今まで以上の希望があります。それは、様々な聖書箇所をすっきりと理解できるようになったことから来るものでしょう。
聖書全体で語られているように、イエスさまは、私たちをどんな中にあったとしても、
試練の中にあったとしても守ってくださるお方です。
わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネの福音書17章15節)
この世の教育に"真"の希望はない
私は、教育に希望を置いていません。
その意味は、教育によって子どもは救われるのではないということです。
教育によって、この世的な良い子を生み出すことはできるかもしれませんが、神の御前に良い子を生み出すことはできません。
救いは、教育によって与えられるのではなく、福音によって与えられます。
だから、私のフォーカスは、良い教育を施すことよりも、福音を伝達することにおかれなけれなりません。
良い叱り方は大切ですが、もっと大切なことは子どもが悪いことをしたときに、子どもの罪に気づかせ、その罪から救ってくださるキリストを語ることです。
教育も躾も良いものですが、それらだけでは子どもは結局は滅びてしまいます。
福音を知り、信じることによって子どもの永遠が決まるのです。
3歳児に、日常的に福音を伝える
我が家の息子は現在、3歳4ヶ月。
以前までは、どのように福音を伝えるのか悩むことが多かったですが、今では日常的にキリストの十字架を伝えています。
もちろん彼の理解力・思考力が増してきたことも一因としてありますが、私自身が福音を日常的に伝えることができると分かったことが大きいです。
何か特別なプログラム(家庭礼拝やディボーションタイムなど)を準備しなくても、キリストの救いについて語ることができます。
それは、息子が罪を犯すからです。
お父さんやお母さんの言うことを聞けないとき、ダメと分かってることをやってしまったとき、そのことを叱る以上に、罪人に対するキリストの救いを語るのです。
人間みんな、悪い心を持っている。罪人だから罪を犯してしまう。そんな私たちを救うために、イエスさまは十字架にかかってくださった。本当は私たちが神様から罰を受けなきゃいけないのに、イエスさまが代わりに十字架で罰を受けてくださった。私のために十字架にかかってくださって死んでくださった、と信じるときに、イエスさまは私たちを救い、私たちが良いことをできるように助けてくださる...。あまり難しい言葉は使わないようにしますが、このように伝えます。また、お祈りします。
自分が悪いことをしてしまったことを理解してるとき、自分に罪があることについて、また、その悪からの救いについて、よく聞いてくれます。
福音を提示したからと言って、すぐに信じるとは考えていませんが、何度も何度も、日常的に福音を伝えることを通して、理解が増し、それが確信となり、信仰に至るように願っています。
福音を伝えるのに、親は誰かに頼る必要はありません。
福音を伝えるのに、特別なプログラムは必要ありません。
福音を伝えるのに、説得力のあるスピーチみたいなのも必要ありません。
子どもの日常の中で、子どもが理解し易いタイミングで、福音を語ることができます。
家庭にあらわされるキリストの愛
人間は一般啓示の一つ。
夫は、一般啓示の中でも特別なもの。
それはキリストの愛と犠牲を示す役割を担っているから。
妻は、家庭においてキリストの愛を見、キリストを崇める。
子供は、家庭において、キリストの愛を見、キリストを近く知る。
そのように、神はキリストの栄光を家庭において表される。
たとえ家庭礼拝が行われていなかったとしても、聖書勉強が行われていなかったとしても、そこにはキリストの愛と知識と喜びが満ち溢れる。
キリストの御性質があらわれることを通して、その栄光があらわれるように、夫の人格(御霊の実)を通して、キリストの栄光があらわれる。
キリストが我が家庭をそのような家庭にしてくださいますように。